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「心に執着がないから日が暮れればとまり、身には住むべき所がないから、
夜が明ければ立ち去る。耐え忍ぶ衣(心)が厚いから杖や木で叩かれても、
石や瓦を投げられても痛くない。慈悲の室(思)が深いので、悪口も聞こえて
来ない。
口にまかせて唱える念仏三昧であるから、市中がそのまま道場である。念
仏の声に従って仏を見るのであるから、出で入る息がそのまま念珠である。
夜々仏のお迎えを待ち、朝々最期の近づくのを喜びとする。身と口と心の三
の働きをすべて天運に任せ、行住坐臥の振舞いはあげて仏道のために捧
げるのである。」
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それから後はこの踊り念仏を自然にまねするものがあったが、そのご利益はそんなにひろまらなかったのである。が、今は時節が到来し歓迎されるようになったのであろうか。と「聖絵」はいう。
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| ◆『聖絵』の踊念仏描写 |
つぎに『一遍聖絵』に描写されている踊り念仏を列挙してみよう。
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@弘安5年(1282) 相模・片瀬地蔵堂における踊り念仏( 『一遍聖絵』第六巻)
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江ノ島から片瀬を望む(藤沢市) |
A弘安7年(1284) 近江・関寺での踊り念仏
池の中島に建てられた踊り屋での踊念仏のシーンが描かれている。
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はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの
のりのみちをば しる人ぞしる
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| 守山の閻魔堂に逗留した時、延暦寺東塔の重豪という人が来て、踊りながら念仏を申されるのはけしからぬことだといって、 |
心駒 のりしづめたる ものならば
さのみはかくや をどりはぬべき |
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| と歌い掛けてきたのに対し、一遍は |
ともはねよ かくても踊れ こころ駒
みだのみのりと きくぞうれしき |
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と答えている(『一遍聖絵』第七巻)。
重豪は念仏は堂内仏前で、静かに威儀を正して申すべきものであると信じていた。しかし一遍は堂内仏前の念仏を市中の群衆の中にもち出した。踊りは心の解放でもあったのである。
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B弘安7年(1284) 京都・四条京極の釈迦堂(踊り屋)
釈迦堂の踊り屋の絵は、片瀬地蔵堂の作りと似ている(ただし、この場面では踊り念仏は記録さ
れていない)。
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| C弘安7年(1284) 京都・空也上人の遺跡市屋の道場での踊り念仏 |
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名声を求め、他人を患いのままにしようとすれば、身も心も疲れ果てる。
功徳を積み、善根を植えようとすれば、いらぬ希望が多くなる。
一人ぼっちで何の地位もないのが何よりである。
閑居の世捨人は貧しさを楽しみとし、
坐禅して深い定に入る人は閑かさを友とする。
藤の衣、紙の衾こそはきよらかな服。
求め易くて盗賊の恐がない。 |
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おのづから あひあふときも わかれても
ひとりはおなじ ひとりなりけり |
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( 『一遍聖絵』第七巻)
踊り念仏の心の解放というのは、何もかも捨て去ることであるという。
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D弘安8年(1285) 但馬・久美浜
海水がさして来て道場いっぱいに入りこんできたシーンを描いている(『一遍聖絵』第八巻)。
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E弘安9年(1286) 淀・「うへの」の踊屋 (『一遍聖絵』第九巻)
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| F正応2年(1289) 淡路・二の宮での踊り念仏 |
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旅衣 木のねかやのね いづくにか
身の捨てられぬ ところあるべき |
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( 『一遍聖絵』第十一巻)
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3.踊念仏の系譜
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一遍の念仏勧進は融通念仏によったものであるといわれる。だから、熊野で「融通念仏すゝむる聖」(『一遍聖絵』第三巻)といわれたのである。
融通念仏は、良忍が天台教学を身につけ大原の山中にいて声明による念仏をひろめようとした。これに対して一遍は民衆の中にいて民衆とともに往生の機を得ようとしたのである。これは空也に近い。一遍は「空也上人は吾先達なり」(「一遍語録巻下」九十九)といっている。
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| ◆時宗系寺院の盛衰と踊念仏 |
| 図表1は、大阪四天王寺が諸堂修覆の助力を仰いだとき寄進した各宗の寺の数(元禄の頃)である。 |
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| この数字に示されている寺院が何を根拠にしているのか不明であるが、遊行宗として記録されている時宗教団の数に驚かされる。さらに明治時代になってからの数字(図表2)と比較してみて欲しい。これらの数字は時宗教団の趨勢を知るのに参考になると思う。現在ではもっと滅少している。 |
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歴史的に踊り念仏のおこなわれた寺について見ると、七条金光寺・四条金蓮寺・大炊道場聞名寺・五条御影堂新善光寺・丸山安養寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などがあり、時宗の寺僧が踊念仏をおこない、大津荘厳寺の法事には東山法国寺の僧が行っている。また四条坊門極楽寺の空也像の前では毎日踊念仏があった。その他では京極光明寺では宇津宮弥三郎朝綱持仏の阿弥陀開帳があり、大阪四天王寺の短声堂では大念仏を修していた。いま踊り念仏・念仏踊の多くは盆を中心にしておこなわれているが、京都では彼岸におこなわれることが多かったという。
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京都東山の時宗寺院 円山安養寺 |

同 霊山正法寺 |
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| ◆伝承芸能にみる踊念仏・念仏踊 |
つぎに踊り念仏や念仏踊りの影響があると見られる踊りのうち今日残存していると思われるものについて、これも思いつくままに挙げてみよう。 |
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| 図表3 踊念仏・念仏踊系の伝承芸能 |
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これらの踊り念仏・念仏踊のすべてが時宗に関係あるわけではなく、京都を中心にして六斎念仏が盛んであり、空也の鉢たたきの系統の踊も加わっているであろうし、また田楽のはやしに念仏鉦のともなっている程度のものもある。
また一遍の踊念仏の系統のものであるとしても、ずいぶん変形しているものがすくなくない。それはそれぞれの土地で伝承されていた土俗的な踊りと融合して新しい踊りができあがったためそのような形で今日まで伝えられたものとも言える。
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| ◆僧尼から民衆へ−踊念仏のひろがり |
『一遍聖絵』では最初の小田切の里での踊念仏を別にすれば、念仏踊をおどっているのはすべて僧尼であり、一般民衆はこれを見ている。前述の諸寺におこなわれる踊り念仏・念仏踊も僧尼が踊ったとある。それが次第に民衆の間で踊られるようになる。
『融通念仏縁起』にも念仏踊のさまが描かれているが、この方は俗人も踊っている。そして寺の本尊のまえで踊っていて、舞台はつくられていない。『融通念仏縁起』の版本は明徳2年(1391)良鎮によってつくられ、肉筆本の方は応永21年(1414)につくられ、版本にしたがって描かれたもののようである。
両本とも室町のはじめに描かれたもので、この頃になると、俗人も踊に参加しはじめていた事がわかる。こうして僧から俗へと除々に踊が拡大浸透していったもののようである。(了)
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…一遍の踊念仏は、まず踊り屋や寺院を舞台として僧尼を中心に広まり、やが
て風流などの影響を受けながら民衆の間に浸透していったのですね。「一遍の
踊念仏は盆踊りの原点」といわれますが、高野先生のお話でその具体的な意
味が明らかになりました。先生、ありがとうございました。
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講師 高野 修 (たかの おさむ)
1935年福島県生まれ、藤沢市在住。藤沢市史編纂室員、藤沢市文書
館長等を歴任。現在 時宗宗学林講師、学習院大学講師。「遊行日鑑」
全3巻(1977〜79、角川書店)校訂をはじめ、「一遍上人と聖絵」
(2001、岩田書院)、「時宗教団史」(2003年、岩田書院)など精力的
に時宗研究を発表し続けている。遊行フォーラム会長。
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