記録にみる昔の念仏踊り
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本願寺との縁もあり、佃島の人たちは「盆には江戸市中を廻って寄進をいただき、本願寺へ奉納して踊りを演じ」(民謡のふるさとを行く)てきました。このような江戸時代の佃島盆踊りの姿は、いくつかのふるいエッセイに記録されています。
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◆「江戸府内絵本風俗往来」(菊池貴一郎著)
「佃踊りは十三日夜より十五日まで毎夜出づ、これは佃島なる老爺、老婆十人、さては八〜九人一組となり、佃島と書きたる提燈をともし、鉦打ち鳴らし、ヤアトセ、ヤアトセと囃しては念仏を節にて唱えて、京橋より日本橋の辺りを廻る。招く門にて称名を唱え、鉦うちならして踊るなり。功徳の施物若干を受けて、又他の招きに応ず、無邪気にして見るに面白かりし」 |
◆「新選東京名所図絵」(明治34年)
「盆踊り、むかしは江戸市中にも行はれしが、ひさしく絶えてなし、唯佃島のみに猶その古風を存し、今に至るまで特許を得て之を行へり。蓋し摂津国佃村より伝へ来りし縁故あるに由る。毎年七月十二日より十六日まで毎夕之を始め、十一時を以て終わるものとす」
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これらの記録から、当時の佃島盆踊りは佃島の中心部(現:一丁目付近)での地域共同体の踊りと同時に、江戸市中を巡回・歴訪しつつ勧進する「移動型」の踊りもあわせ持っていたことがわかります。
このように、地域の拠点を巡回・歴訪して踊る芸能は、各地の念仏踊りや盆踊りに多く残されており、盆踊りや念仏踊りの古い姿を示しています。ちなみに、佃島との共通性が指摘される白石盆踊りにおいても、やはり新盆の家を訪問するタイプの盆踊り行事が残されています。
記録によると、こうした巡回型の踊りは高齢者10人程度を中心とするもので、また「鉦」を使う点でも現在の佃島盆踊りとは異なっています。その姿は、むしろ現在各地で見られる「念仏講」に近い形であるように思われます。
こうした「市中廻り」の踊りは、天保2年(1831)町奉行遠山左右衛門尉の改革により中止となり、そのあとは「佃島及び周辺の浜辺や網干場のような空地で踊るようになった」(民謡のふるさとを行く)ということです。また同様の念仏踊りが、「明治までは築地や鉄砲洲でも踊られていた」(辞典)という指摘もあります。
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民謡の移動から 
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民謡の全国的な分布からも、佃島盆踊りの起源についての手がかりを得ることが出来ます。
佃島と同種の曲調のうたは、岡山県白石島など「瀬戸内海をはさんだ中国・四国両地方の沿岸部や島々」や、「山陰から九州の大分県のこれまた沿岸部」(民謡のふるさとを行く)など、瀬戸内海を中心とする西日本の沿岸部に点在しています。
たしかに、「白石踊り」の曲調は、佃島念仏踊りのそれとよく似ています(音源参照)。このことから、この種の唄が「発祥地は不詳ながらも、海路広まり、それがはるばる佃島にも伝えられた」(同書)と考えられています。普及の時期や状況を具体的に示す史料はありませんが、瀬戸内海を拠点とする近世漁民が佃島へのへのうたの普及に一役買っていた可能性が高いようです。 |