盆踊りの一番古い記録は、1431年看聞日記に記載されている、伏見即就院の記録です。
その後、様々な記録が残されています。

ここでは、歴史上の有名人と盆踊りについてまとめてみました。昔の盆踊りが、少し
身近に感じられるような気がしてきます。

・織田信長と盆踊り(戦国時代)

信頼性の高い記録とされている、太田牛一の「信長公記」にお盆の風流踊りが記されています。
1556年(弘治2年)7月18日堀田道空の中庭でのこと。これは、桶狭間の戦いの4年前にあたります。
風流(ふりゅう)踊りという、仮装して踊るイベントが、当時流行しておりました。
織田家でも、それが行われ、以下の記録があります。
家臣が、赤鬼、黒鬼、弁慶、鷲などに扮装し、信長は天人に扮して小鼓をたたいて踊ったとされています。
派手好きな当時22才の信長らしいエピソードです。

国立国会図書館デジタルコレクション
尾張名所図会. 附録 巻5より

「七月十八日おどりを御張行
一、赤鬼平手内膳衆 一、黒鬼浅井備中守衆 一、餓鬼滝川左近衆 一、地蔵繊田太郎左衛門衆
辨慶に成り候衆、勝れて器量たる仁躰なり。
中略
一、上総介殿は天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ぱし、女おどりをたされ侯。
津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり」

・今川氏真と盆踊り(戦国時代)

戦国大名の風流踊りの記載は、「校訂 松平記」にもあります。
1567年(永禄10年)7月、駿河地方に風流踊りがはやり、三浦右衛門佐が氏真にすすめ、
翌年7月には、氏真自らほおかぶりをして、大鼓を叩いたとあります。
これは、今川家滅亡の2年前のことになります。
武人としては、評価が今一つの氏真ですが、和歌、連歌、蹴鞠に通じる文化人でもありました。

盆踊りも最新の文化として、受け入れたのかもしれません。

「永禄十年七月、駿河国に風流の跳、はやり、諸人惣踊りをおどる。~中略~
三浦右衛門佐・・・氏真にも勧 ~中略~
永禄十一年六月より踊りまたおこり・・氏真ほおかふりなされ、大鼓を打ち給」

・良寛と盆踊り(江戸時代)

良寛禅師奇話には、女装して踊ったという記載があり、また、良寛の唄とし
「風は清し 月はさやけし いざ共に 踊り明かせむ 老いの名残りに」というものがあります。
子供と遊ぶなど、暖かいエピソードが多い良寛さん。
逸話と唄から、踊りを愛した様子がうかがえます。
「中元前後、郷俗通宵踊りをなす。すべて狂うごとし。師これを好む。手巾を以って頭を包み、婦人の状をなし、衆とともに踊る。人、師なることを知り、傍らに立ちて曰く。この娘子、品よし、誰が家の娘と。師これを聞きて悦ぶ。」

 

・河井継之助と盆踊り(幕末)

戊辰戦争の北越戦争で、長岡で指揮をとり、熾烈な戦いで新政府軍に最後まで挑んだ河井継之助。司馬遼太郎の「峠」のモデルにもなった人物です。この継之助が、実は盆踊り好きだったそうです。闘士の微笑ましい一面をみるような気がします。

兄は此盆踊が大好でしたが、尤も武士は仲間入りを禁じ られてありましたから、表向出る譯には参りませぬので、コッそり出るのです。確か兄が十七八 歳の時、妾の真岡の浴衣の子供着物をつけ、手拭で顔を隠し、『お母さんには黙って居ろ』と申して宅を提出し、終夜盆踊の仲へ入ったことがありました。(河井継之助伝より、妹談)

・小泉八雲と盆踊り(明治時代)

ギリシャに生まれ、日本に訪れ、日本を愛した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)
「Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)」には、島根の盆踊りにこころ惹かれた様子が生き生きと描かれています。
八雲にとって、盆踊りは、日本のエキゾチックさを感じる1つのイベントだったのです。

‘Oh! we must go to see it,’ cries Akira; ‘it is the Bon-odori, the Dance ofthe Festival of the Dead. And you will see the Bon-odori danced here as it is never danced in cities—the Bon-odori of ancient days. For customs have not changed here; but in the cities all is changed.’

・森鴎外と盆踊り(明治時代)

森鴎外のヰタ・セクスアリスには、津和野踊りの記述があります。
当時の盆踊りが、色恋の現場であったことが、内容からわかります。
10才の鴎外は、大人の会話に嫌な気分がして、踊りに行かずに帰ったという文章が綴られています。