盆踊り歴史関連人名参照です。

 

 

あ行

一遍(いっぺん)

延応元年(1239年) – 正応2年(1289年)

時宗の宗祖。伊予松山に河野通広の次男として生まれる。壇ノ浦で活躍した河野水軍の将であった河野通信は祖父にあたる。承久の乱後、河野家は没落。十代前半で出家し、太宰府の聖達上人、肥後国の華台上人、の下で研鑽するが、1263年父の訃報に接し、故郷に戻る。修行を続けながら一般人としても生活し妻もめとる。三十代で「肉親の愛を捨て仏道一筋に生きる」と再出家、3年余の修行の後、1274年より超一(妻と推察)、超二(娘と推察)、念仏坊と共に遊行の旅に出る。天王寺、高野山、熊野、京、九州と巡り、伊予に戻り国内をくまなく念仏を勧めて歩く。筑前(福岡)、大隅八幡(鹿児島)、備前(岡山)、京都巡り、長野に向かう。ここからが、「踊り念仏誕生」のポイントとなる。信州の小田切の里にて、ある武士の館で一遍上人が踊り、僧も俗人も皆一緒に踊ります。そして、「踊りながら念仏するとはけしからん」という者に対し「はねばはねよ おどらばおどれ はるこまの のりのみちをは 知る人ぞ知る」と返す。『跳ねたければ跳ねればよい。踊りたければ踊ればよい、春駒(春の野に遊ぶ馬)のように。まことの仏法の道はわかる人にはわかるのです』。

神奈川県遊行寺の一遍上人像

一遍は祖父の墓を参りに奥州江刺(岩手県)に向かった東北からの戻りで、鎌倉に入ろうとするが、幕府の武士から止められる。そこで、鎌倉の外、片瀬(藤沢市)で櫓をたて、踊り念仏を行う。これが有名な片瀬の浜の踊り念仏である。その後も山陰、機内、などを巡り、1289年に亡くなるまで遊行を続け、実に九州から東北までこの時代に歩き続けた。念仏を勧め、踊りを推奨した教えは、最終的には信じる信じない関係なく、「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した札「念仏札」と呼ばれる札を配るという形にまで昇華されたものとなる。一遍の後、時宗は踊り念仏を勧め、また、戦に同行する僧となった。また、入門の敷居が低いことから芸能関係者を取り込むことにもなり、芸能との結びつきも出ることになった。

参考「国宝 一遍聖絵」遊行寺宝物館編 「一遍と時宗の謎」桜井哲夫

盆踊りへの影響

踊り念仏が盆踊りのルーツとも言われる。後々の盆踊りの基礎となったと同時に、死後10年に描かれた一遍聖絵により、その当時の踊り念仏の様子が残る貴重な資料となった。

 

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小寺融吉 (こでら ゆうきち)

明治28年(1895年) – 昭和20年(1945年)

四歳のとき北海道小樽に転住。十四歳のとき上京。早稲田大学卒業。中学時代から歌舞伎と郷土舞踊の研究に没頭し、早大卒業後は坪内逍遥に師事。学生時代、東京の街の片隅に、地方新聞を売る露店を見付けては、これを買い、郷土芸能の記事を探していた。

1922年、『近代舞踊史論』を出版。逍遥はその序文で「此著は私に取っては、一つの驚異であり、一つの喜悦でもある」と記す。
郷土舞踊は物好きによる好奇の対象か、一部学者の文献による研究にすぎなかったが、実証的にその相貌と性格を明らかにし、初めて演劇舞踊史の重要な一環として取りあげた。特に歌舞伎舞踊との関連性を指摘したこと、雑多でごった煮と見なされていた郷土舞踊に、一貫した学問的体系を与えようとしたことは特筆とみなされた。

彼の研究態度は欧米の演劇学に則したもので、特に未解明の民族の芸能に関する分析法を利用し、田楽・神楽その他の行事を、芸能発生の根元的な契機として追求したことは、先進的であった。地方の多種多様な民俗芸能など見向きもされぬ時代の中でのことである。
大正十四年(1925年)は明治神宮外苑に建設された日本青年館の開館記念公演として催された「全国郷土舞踊と民謡大会」は予想外の好評を博したが、小寺はその催しに当って、柳田国男・高野辰之とともに審査顧問を依嘱された。同時に舞台監督として実際の演出指導にあたった。これは1936年まで継続して、全国から55種の郷土舞踊と16種の民謡を紹介した。民俗芸能が初めて国民全般に知られることになった。
昭和2年『民俗芸術の会』を結成。会には会長その他の役員をおかず、小寺と永田衡吉が世話人となった。雑誌「民俗芸術」を昭和3年正月から刊行するに至るが、1931年に編集から退き、その後廃刊。この雑誌は短命であったが、民俗芸能研究の道しるべとなった。
『郷土舞踊と盆踊』は、盆踊りをはじめて正面からとりあげた著作物である。

戯曲家としても「真間の手古奈」を雑誌 「解放」に発表。帝国劇場で上演された。

参考:「民俗芸能・明治大正昭和」永田衡吉

盆踊りへの影響

盆踊りや民俗舞踊の価値をいち早く世に知らしめた。全国郷土舞踊と民謡大会により全国区になった盆踊りも非常に多い。

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西条八十(さいじょう やそ)

明治25年(1892年)-昭和45年(1970年)

東京牛込に生まれる。早稲田中学入学後、教師吉江孤雁の影響から文学を志すようになる。吉江の関係から国木田独歩、また、野口雨情に心をひかれる青年時代であった。早大では島村抱月の講義をうける。父の死後、兄が資産を持ち逃げし、一家を養う必要がでる。大正五年結婚。その後天ぷら屋を営んだ。1918年(大正7年)、鈴木三重吉が八十をたずね、自分の主催する「赤い鳥」に新しい童謡を書いてほしい都依頼をしてきた。この赤い鳥に掲載された2作目が「カナリア」であった。1919年(大正8年)詩集「砂金」を刊行。また、同年野口雨情を「金の船」に紹介し、雨情の活躍の場作りに寄与。八十の詩は、雨情の土俗的に対し、西欧風といわれる。八十は童謡運動の中で、数々の作品を発表する。代表作としては「鞠と殿様」があげられる。1929年(昭和4年)中山晋平作曲、佐藤千夜子歌の「東京行進曲」が大ヒットとなる。1930年(昭和5年)1ヶ月かけて民謡の旅に出る。(北陸・山陰・山陽・九州・四国・紀州)なお、八十は「ひろく地方を旅すれば旅するほど真実だと肯づかれる」 「日本全国に古民謡は 夥しく残存し、中には秀抜な歌詞も多少あるが、大体においてそ の土地独特の景趣、人情を詠った歌詞はきわめてとばしく、たいていの土地がおなじ歌詞 を共通に、節だけを変えて唄っているということだった。移りゆく時代に即応する清新な 歌詞を詩人たちが作って補足する必要がどうしてもあると、ぼくは考えた」と述懐している。こうしたことをベースに新民謡運動の中で、数々の詩を綴っていく。そして1932年(昭和7年)に丸の内音頭、1933年(昭和8年)には、丸の内音頭の歌詞を置き換えた東京音頭を発表。この中山晋平とのコンビの曲は、新民謡の金字塔となる。その後も、蘇州夜曲(昭和15年 作曲 服部良一)、戦友の歌(昭和14年 作曲大村能章 同期の桜の原曲)、青い山脈(昭和24年 作曲 服部良一 王将(昭和36年 作曲 船村徹)など、時代時代の代表的な歌謡曲を作詞。スタンダードナンバーとして今でも唄い継がれている。また、昭和52年(1977年)に封切りされた森村誠一原作の映画「人間の証明」では、八十の詩「僕の帽子」『母さん、僕のあの帽子どうしたでしょうね?』がCMなどで非常に印象的に使われた。

新宿駅前にある西条八十の歌碑

 

盆踊りへの影響

現在も盆踊りの代表曲である「東京音頭」を作詞したのと同時に、民謡の発掘、地域の新民謡(盆踊り)を作るなど、盆踊りの普及に大きな役割を果たした。

 

さん

三条西実隆(さんじょうにし さねたか)

康正元年(1455年)-天文6年(1537年)

日記(実隆公記:文明6年(1474年)~天文5年(1536年))を記す。その中に、初期の風流踊りの記載が複数あり。当時の状況を知る貴重な資料となっている。
三条西家は、藤原北家庶流の三条家のさらに庶流。南北朝時代に家がおこされている。子供時代に応仁の乱が重なり、家が焼け、疎開生活を送る。若き日の実隆は後土御門天皇や、足利義政、義尚からも信頼され、書写や教育などを依頼された。日記の初年は文明6年、二月に足利義政・日野冨子夫妻と足利義尚が参内し主演が催され、陪席した実隆は酔い倒れるほどの状況だったという。
時は、応仁の乱から、明応の政変、細川家の主導権争いとめまぐるしく動き、その中で公家の生活は徐々に経済的に苦しくなる。
そんな状況の中でも、実隆は飯尾宗祇から古今伝授を受け継ぎ、当代の有識者としての立場であった。為政者が次々と変わり、火災や天変地異などにたびたび見舞われる世の中を憂いながら、傍観者として記録を残した。政治的には細川高国を支持。時代が移りゆくなかでも和歌を家の力として一級貴族として一生を過ごしたといえる。言継卿記を残した山科言継は「烏帽子子(えぼしご)」にあたる。

参考:「三条西実隆」 吉川弘文館

盆踊りへの影響

風流踊りに対しては、騒々しいからか、多少ネガティブな記載をしているが、室町後記の風流踊りの叙述が、当時の盆踊りの手がかりとして非常に重要である。

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中山晋平(なかやま しんぺい)

明治20年(1887年)-昭和27年(1952年)

現在の長野県中野市に生まれる。子供の頃、笛が上手で有名であり、村の祭礼でも吹いたという。長野師範学校を卒業、代用教員となる。1905年(明治38年)島村抱月の書生として、上京。東京音楽学校に入学、ピアノ科を卒業。トルストイ原作、島村抱月訳脚色の「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」を作曲。これが松井須磨子の歌により大流行となる。その後、ツルゲーネフ原作「その前夜」の劇中歌「ゴンドラの唄」も手がける。(ゴンドラの唄は、後に黒沢明監督「生きる」の中でも効果的に使用された)大正後期~昭和初期、野口雨情の「金の船」に掲載された童謡詩に曲をつけ、童謡運動の中で名曲の数々を作曲。「しゃぼん玉」「てるてる坊主」「鞠と殿様」「あの町この町」等々。1919年(大正8年)野口雨情と民謡の旅に出る。(水戸、大洗、郡山)その旅からうまれた「船頭小唄」は「おれは河原の枯れすすき」というわびしい歌詞がうけ、演歌師が唄って流行する。1921年(大正10年)長野県須坂の製糸工場「山丸組」を雨情と訪問。工場唄の依頼をうけ、最終的に「須坂小唄」が雨情の作詞、晋平の作曲、佐藤千夜子の唄、さらに藤陰静樹の振付けで完成。歌詞に「カッタカタ」という糸作りの音が効果的に使われた。新作地方民謡の誕生である。1924年(大正13年)山丸組の講堂で発表会と練習会が行われる。その後、佐藤千夜子とのコンビで、波浮の港、東京行進曲といったヒットをとばす。そして、新民謡の金字塔「東京音頭」は昭和8年(前身の丸の内音頭は昭和7年)に作曲。前奏に鹿児島のおはら節を引用し、ヨナ抜き音階で作られたこの曲は爆発的なヒットとなる。晋平は以降も八十と沢山の新民謡を作成した。

参考:「定本 中山晋平」町田等監修 「カッタカタの唄」茂木真弘

盆踊りへの影響

新民謡の礎を築いた作曲家である。ヨナ抜き音階や田舎節音階などを駆使したその作曲手法は、その後の「○○音頭」に踏襲されていく、まさに現代系盆踊り作曲の祖といえる人物である。

熱海梅園に移築された旧中山邸

野口雨情(のぐち うじょう)

明治15年(1882年)-昭和20年(1945年)

野口家は楠正季を祖とすると言われる。雨情は茨城県磯原に生まれる。1901年(明治34年)東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学。坪内逍遙の薫陶をうける。学校を1年で退学。詩人としての活動を開始。1904年(明治37年)父の死により、磯原に呼び戻される。1906年(明治39年)再上京。1907年(明治40年)民謡詩集「朝花夜花」出版。これが、芸術民謡の緒と言われる。同年北海道に移り、新聞記者となる。この時代、同じ記者であった石川啄木と交流。1919年(大正8年)10年のブランクを経て中央詩壇に復帰。同年、童謡雑誌「金の船」への詩の掲載が始まる。「十五夜お月さん」「青い眼の人形」「赤い靴」「七つの子」などが本居長世の作曲で世に出る。また中山晋平とのコンビで「証城寺の狸囃子」「兎のダンス」の童謡あり。中山晋平とは、「枯れすすき(船頭小唄)」がバイオリン演歌となり流行したのをはじめ、「波浮の港」は佐藤千夜子や藤原義江の唄でヒット。童謡・流行唄の作詞家となる。そして、新民謡運動にも積極的に参画。

雑誌民謡詩人 表紙画は竹久夢二 雨情が何度も寄稿

雑誌「民謡詩人」において、雨情は「新民論の提唱は、在来の民話は現代の社會相とは、かけ離れてゐて、陳套であるといふ考へから、在來の民謡を破壊し、葬り去る運動でもあるかの如く考へる人があるが、私に決してさうは思つてゐない。要するに新民謡の提唱は、民謡の獨立運動であつて、永い間混同されて來た俗謡からの分離、又詩としでも極めて低級なものとされてゐた間違ひからの訂正であるこの民謡の獨立運動は、やがて、國土的作品(借り物の作品でない作品の意味)の機運を促す原動力ともなることで、彼の十八世紀の交藝復興の先駆ともみるべき獨逸の詩人ヘルデルは、どうであつたかも記憶して貰ひたいのである。」と考えを語る。藤井清水(作曲)、権藤円立(歌)と共に、新民謡の活動に取組み、演奏会なども行う。中山晋平の項にも記載した須坂小唄は新作地方民謡の最初の例となり、その後も雨情は沢山の作品を作る。

参考:「野口雨情伝」野口不二子 「雨情と新民謡運動」古茂田信男

盆踊りへの影響

新民謡の詩を始めたのは野口雨情であり、中山晋平はそれに触発された作曲したとも言える。そのため、新民謡の祖であり、須坂小唄のような新作地方民謡の祖でもあるため、現代系盆踊りの源流の1人である。


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花柳寿美(はなやぎ すみ)

明治31年(1898年)-昭和22年(1947年)

花柳寿美がモデルとなった東京一代女

東京音頭の振付け図。花柳寿美振付の文字がある。

岐阜県に生まれる。その後名古屋にうつり西川流でてほどきをうける。1910年(明治43年)上京。新橋の芸者となる。大正の後半、新舞踊の新人として認められるようになる。1926年(大正15年)曙会を立ち上げる。1928年(昭和3年)には、帝国ホテル演芸場に進出。古典に加え、証城寺の狸ばやし、兎のダンスなどの童謡にも取組み。バレエの要素を取り入れるなども行った。レコードを流しての舞踊の普及にも力を入れている。盆踊りの定番の振付けを行った意味でも特筆される。邦枝完二の「東京一代女」のモデルにもなった。

参考「近代日本舞踊史」西形節子

盆踊りへの影響

盆踊りの定番曲の東京音頭(丸の内音頭)の振付けをしたことが、一番大きなポイントである。

藤蔭静樹(ふじかげ せいじゅ)

明治16年(1883年)-昭和41年(1966年)

新潟の生まれ。幼少から芸妓のしつけとして、舞踊と三味線を仕込まれる。1898年(明治31年)上京。1903年(明治36年)川上音二郎、貞奴一座の舞台オテロに侍女役で出演。一度役者をあきらめ新潟に戻るも再上京。藤間勘衛門の門下となる。新橋の巴家の芸者となった後、芝公園紅葉館(現在の東京タワーの場所にあった料亭)で、1911年(明治44年)初舞台。永井荷風と出会い1914年(大正3年)に結婚するが、翌年家を出る。永井荷風とは一度よりを戻したもののその後、別れをつげることとなる。1917年(大正6年)藤陰会の第一回を開催。最初はこれまでの舞踊の踏襲であったが、坪内逍遙の提唱していた動きにも刺激され、徐々に新舞踊へと軸足をおいていく。第六回では町田佳声に参画を求め、その提案する曲で踊る。その後、童謡、新日本音楽などでの舞踊に挑戦。そして、新民謡運動とオーバーラップしていく。関東大震災の後、中山晋平が新民謡のスタートと言われる「須坂小唄」を作曲し、藤蔭静樹に振付けを依頼する。創作舞踊への意欲を強く買ってのことである。1924年(大正13年)帝国ホテルでの第十五回藤蔭会で「須坂小唄」が披露される。また、このころ岡田嘉子(人気女優:後のソ連への逃避行で有名)が弟子となり、同じ舞台を踏んでいる。新派劇の水谷八重子も参加。その後もパリ公演や、クラシック作曲家グリーグ、リムスキーコルサコフ、ボロディン、ドビュッシーの曲で舞踊するなど意欲的な活動を続ける。戦中になると、国威発揚的な内容も組み込むことになる。戦後も1946年(昭和21年)より公演を再開し、80才になるまで舞台にあがり続けた。

参考:「藤陰静樹 藤陰会50年史」

盆踊りへの影響

童謡と新民謡の普及に尽し、野口雨情、中山晋平、佐藤千夜子らと各地に出張。実地指導を行い、新民謡の踊りを普及させることに貢献。

須坂小唄が演じられた当時の帝国ホテル玄関。現在は明治村に残る。

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町田佳声(まちだ かしょう)

明治21年(1888年)-昭和56年(1981年)

群馬県伊勢崎の商家に生まれる。東京美術学校に入学。結核を煩い茅ヶ崎の南湖院で1年療養。美術学校卒業後、眼に負担をかけると危険があるとのことで、製図をあきらめ新聞社に入社するも体調を崩し退社。療養後、あらためて新聞社に入ると同時に、二代目稀音家浄観に三味線を習う。新日本音楽(宮城道雄・本居長世など)、新舞踊運動(藤蔭静樹など)と交流。この間、邦楽を五線譜に落としたり、秘曲をレコード化する独自の取組みなどを行う。大正15年の東京放送局開局にあたり、入局。初期のラジオで民謡番組を担当する。民謡番組は非常な評判となる。地方民謡(歌手を地域から呼んだ)、邦楽に取り込まれた民謡、そして新民謡(中山晋平作のものなど)等、様々な角度から紹介を行う。昭和2年(1927年)北原白秋の詩に佳声が曲をつけた「ちゃっきり節」が完成。昭和5年放送局を退局。その後、民謡採取、民謡研究に軸足を移行する。そのとき利用されたのが「町田式写音機」。昭和12年(1937年)頃、市販の写音機(蓄音機のラッパの部分に声を入れると、溝のきっていない原盤に音が記録される仕組)。その後製造元が倒産してしまい、独自に町田が当該機械と蓄音機を組み合わせて写音機を作成。町田の記録により、戦前の現地記録の民謡を聴くことができる、大変な取組みであった。町田は戦時中の1944年まで民謡採取活動を続ける。1944年7月「日本民謡大観 関東編」が刊行される。昭和20年家が戦災で焼けてしまう。1947年戦後のNHKで「民謡の時間」を担当。戦後の民謡ブームの一翼を担った。NHKの委嘱による民謡大観の編集が再開。1961年後に後継者となる竹内勉と出会う。日本民謡大観は1980年まで(本土分)、沖縄分まで入れると1993年までかかる一大編集となった。

参考:「民謡に生きる」竹内勉

盆踊りへの影響

町田の労力がなければ、地域現地で大切にされてきた民謡、盆踊りが価値を見いだされ、記録さえれることはなかった。

民謡大観(写真は復刻版)

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山科言継(やましな ときつぐ)

永正4年(1507年)-天正7年(1579年)

日記(言継卿記1527年(大永7年)~1576年(天正4年))を記す。三条西実隆は烏帽子親にあたる。
同じ貴族であった三条西実隆とは、かなり立ち位置が違う。1533年7月、言継は実隆に短冊の染筆を依頼。それを持参品とし尾張に向かった。尾張では、織田信秀を訪ね、蹴鞠や和歌を伝授。これが後の信秀から天皇即位式の献金につながる。1556年 弘治2 今川義元、寿桂尼と面会 酒を酌み交わす。「太守下戸タリト雖モ十余盃受用サレ了ンヌ」との記載あり、こちらでも献金を獲得する。
ある種文化資源を使った営業のようである。 1557年 弘治年正月には、 松平元康(家康)の人質随行家臣の松平親乗と盃をくみかわしており、後の1568年 永禄11年 松平親乗が京都の山科邸を訪れた際には、親乗を歓待している。こうした情や縁を大切にするところも、誇り高い貴族というイメージとは違っている。風流踊りに対する記録も多数残しているが、見物にいくなどの記載が主であり、新しく奇抜なものを楽しむ心得もあったと感じられる。朝廷存続のための貢献が認められ、1915年(大正15年)に従一位が贈られた。

参考:今谷明 戦国時代の貴族―『言継卿記』が描く京都 (講談社学術文庫)

盆踊りへの影響

多数の盆の風流踊りの記録を残しており、室町~戦国期の貴重な資料となっている。

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