「踊念仏・念仏踊・盆踊

  -その系譜関係を探る」 

高野 修 先生(遊行フォーラム会長・
元藤沢文書館長)

記念すべき連続紙上講演の第1回は、遊行フォーラム会長・高野修先生にお願いしました。

元藤沢市文書館長の高野先生は藤沢郷土史の大先達で、時宗研究の第一人者として精力的にご活躍中です。今回は踊念仏や盆踊りの概念整理を手始めに、『聖絵』はじめさまざまなデータを駆使して盆踊りの原点探求の手がかりを示してくださいました。 

1.踊念仏・念仏踊・盆踊 -概念整理

◆「踊念仏」と「念仏踊」

「踊念仏」と「念仏踊」の相違であるが、民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂)によれば、
 念仏踊の項:
 「一遍上人・空也上人らによってはじめられた踊りと伝える。踊念仏ともいう」

ここでは「踊念仏」と「念仏踊」との区別はなされていない。
これに対して、大塚民俗学会編『日本民俗事典』(弘文堂)では、

 踊り念仏の項:
 「仏教儀礼として、念仏をとなえながら舞い踊ることで、芸能としての念仏踊と
 区別する」

 念仏踊の項:
 「踊り念仏は仏教儀礼として、念仏・和讃をうたいながら霊の鎮魂や鎮送のた
 めに踊るものであるから、これを芸能または娯楽のためにすると、念仏踊となる。
 しかし現今は、民俗芸能と称して大念仏・六斎念仏・盆踊などを、すべて念仏踊
 に入れている」

ここでは明確に区別をしているが、今日ではその区別も曖昧になりつつあるという。

 「宗教的な目的からはなれて芸能娯楽化したのを風流というが、その風流化が、
 宗教より娯楽にかたむいたとき念仏踊といわれる」

ともいう。
私は『日本民俗事典』の見解で良いのではないかと思っている。

◆「念仏踊」と「盆踊り」

「念仏踊」は「踊念仏」の芸能化によると説明したが、「踊念仏」も「念仏踊」も共に時期を選ばずに行うが、盆踊りは精霊の供養のための踊りであり、とくに決まった型(芸態)があるわけではない。かなり自由であって、念仏や和讃を唱えて踊る地方もあれば、民謡を唱和し、時には即興的にうたって踊る場合が多い。
盆踊りが精霊の供養のためということ、つまり盂蘭盆会に死者の霊をなぐさめて再び送るための踊りとされ、それが地域の共同娯楽として、あるいは秋の豊年の祈りもこめられるようになった。本来は新盆の家から出す切子灯籠をかこんで踊る所もあるが、多くは、音頭の櫓を中心に輪が描かれている。阿波踊、広島県三原のヤッサ踊のように町を流す所もある。


堂内で踊る念仏踊り
水窪念仏踊り(静岡県)

切子灯篭を廻って
新野盆踊り(長野県)
ところで踊りは古くから歌垣(かがい)に起因するものであって、本来盆踊りとは関係のないものであるといわれている。しかし、民間における祖霊慰楽の供養のためとする観念が強く残っていて、盆踊りをすることによって、凶年から救われるというのである。秋の豊年の祈りと無関係ではない。

また現在ははなはだしく芸能化しており、神仏両様それぞれに教義が多く付加されているので、その混交は見分けがたくなっている。



豊年踊りの別称をもつ西馬音内盆踊り(秋田県)

◆「風流踊り」との関係

『日本民俗事典』の「念仏踊」の項に説明されているように、「踊念仏」が芸能や娯楽のために行われ、芸能または娯楽のために行われると「念仏踊り」となり、さらに宗教的な目的からはなれて芸能娯楽化すると風流と呼ばれる。

風流化は華美な服装や仮面や持物などにあらわれ、また念仏和讃ではなく、恋歌や叙景歌や数え歌などとなった。五来重氏は田楽と踊念仏の結合が平安末期に行われたことによるという。平安末期に佛くさい今様の法文歌を白拍子が歌い、舞ったりしたことから、念仏踊への道が開かれたという。越中五箇山のコキリコ踊や越後黒姫村女谷の綾子舞などにこの段階の念仏踊がみられるという。また雨乞踊・豊年踊・花笠踊などがあげられる。
風流踊りはサギ・鶴・鹿・鳳凰などに仮装して踊る仮装風流の踊りや、背に美しい神籬(ひもろぎ)を負う太鼓踊り・鞨鼓踊り・風流獅子(鹿)踊りなどほとんどの踊りが風流踊りと称しても良いほどである。



仮装風流のパラダイス・姫島(大分県)

2.『一遍聖絵』と踊念仏

◆一遍踊念仏の誕生
一遍聖は弘安2年(1279)春から八月まで因幡堂に滞在、秋に信濃善光寺へ赴く。『一遍聖絵』第四巻には、佐久郡小田切の里、或る武士の館において、あまたの道俗と共に念仏しているうちに、突然一遍が踊りだし一同これにならって踊りまわったという。これは空也の先例にならって踊り念仏をはじめたともいう。その様子は、道俗多く集って結縁者が激増したので、相続して一期の行儀となったとも。

さらに弘安2年(1279)冬『一遍聖絵』第四・五巻によれば、佐久郡の大井太郎という武士が一遍に帰依、その邸を寺とする。今の野沢金台寺がそれであるという。その姉は信心はなかったが、ある夜夢に一遍の姿を拝み、信心おこして一遍をわが家に招き三日二夜供養した。このとき「数百人をどりまはりけるほどに」板敷を踏み落してしまった。これを記念にしようといって、修繕することなくそのままにおいたという。

この時の様子をもう少し詳しく述べると、『一遍聖絵』には、多数の人々が庭で円陣を作って踊り、一遍は瓢を扣(たた)いて踊っている。このとき大井太郎が鉦を鋳て差し上げたので、この鉦を扣いて踊るようになったという。「竹馬遊びの童子もこれをまねて踊り、きぬた打つ女もこれになずらえて声々に唱えた」と語っている。一遍の念仏が「信不信をいわず、浄不浄をきらわず、ただひたすら仏願に乗じて無心に唱え、わが申す念仏ではなく、仏と共に申す念仏、最後にはその我も仏も消え果てて念仏が念仏を申す、南無阿弥陀仏になり切ること」を以て理想とした。踊り念仏はこの境地の顕現とされたのである。
また『一遍聖絵』は、一遍の踊り念仏の先達を市聖空也にもとめている。

 「そもそもをどり念仏は空也上人或は市屋或は四条の辻にて始行し給ひけ
 り。‥・それよりこのかたまなぶものをのづからありといへども、利益猶あま
 ねからず。しかるをいま時いたり機熟しけるにや」

と述べている。空也が踊り念仏を行なったということは、その伝記類にも記録されていないのである。しかし、そのような伝承があったものであろう。
また一遍は、常に空也のつぎの文を持っていたという。

 「心に執着がないから日が暮れればとまり、身には住むべき所がないから、
 夜が明ければ立ち去る。耐え忍ぶ衣(心)が厚いから杖や木で叩かれても、
 石や瓦を投げられても痛くない。慈悲の室(思)が深いので、悪口も聞こえて
 来ない。
 口にまかせて唱える念仏三昧であるから、市中がそのまま道場である。念
 仏の声に従って仏を見るのであるから、出で入る息がそのまま念珠である。
 夜々仏のお迎えを待ち、朝々最期の近づくのを喜びとする。身と口と心の三
 の働きをすべて天運に任せ、行住坐臥の振舞いはあげて仏道のために捧
 げるのである。」

それから後はこの踊り念仏を自然にまねするものがあったが、そのご利益はそんなにひろまらなかったのである。が、今は時節が到来し歓迎されるようになったのであろうか。と「聖絵」はいう。

◆『聖絵』の踊念仏描写

つぎに『一遍聖絵』に描写されている踊り念仏を列挙してみよう。

①弘安5年(1282) 相模・片瀬地蔵堂における踊り念仏( 『一遍聖絵』第六巻)


江ノ島から片瀬を望む(藤沢市)

②弘安7年(1284) 近江・関寺での踊り念仏  
 
 池の中島に建てられた踊り屋での踊念仏のシーンが描かれている。  
 はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの 
 のりのみちをば しる人ぞしる
守山の閻魔堂に逗留した時、延暦寺東塔の重豪という人が来て、踊りながら念仏を申されるのはけしからぬことだといって、  
 心駒 のりしづめたる ものならば 
 さのみはかくや をどりはぬべき
と歌い掛けてきたのに対し、一遍は
 ともはねよ かくても踊れ こころ駒 
 みだのみのりと きくぞうれしき
と答えている(『一遍聖絵』第七巻)。

重豪は念仏は堂内仏前で、静かに威儀を正して申すべきものであると信じていた。しかし一遍は堂内仏前の念仏を市中の群衆の中にもち出した。踊りは心の解放でもあったのである。
③弘安7年(1284) 京都・四条京極の釈迦堂(踊り屋)
 
 釈迦堂の踊り屋の絵は、片瀬地蔵堂の作りと似ている(ただし、この場面では踊り念仏は記録さ
 れていない)。
④弘安7年(1284) 京都・空也上人の遺跡市屋の道場での踊り念仏  
  名声を求め、他人を患いのままにしようとすれば、身も心も疲れ果てる。
  功徳を積み、善根を植えようとすれば、いらぬ希望が多くなる。
  一人ぼっちで何の地位もないのが何よりである。
  閑居の世捨人は貧しさを楽しみとし、
  坐禅して深い定に入る人は閑かさを友とする。
  藤の衣、紙の衾こそはきよらかな服。
  求め易くて盗賊の恐がない。
 おのづから あひあふときも わかれても
 ひとりはおなじ ひとりなりけり
                                           ( 『一遍聖絵』第七巻)

踊り念仏の心の解放というのは、何もかも捨て去ることであるという。
⑤弘安8年(1285) 但馬・久美浜

 海水がさして来て道場いっぱいに入りこんできたシーンを描いている(『一遍聖絵』第八巻)。
⑥弘安9年(1286) 淀・「うへの」の踊屋 (『一遍聖絵』第九巻)
⑦正応2年(1289) 淡路・二の宮での踊り念仏
 旅衣 木のねかやのね いづくにか
 身の捨てられぬ ところあるべき
( 『一遍聖絵』第十一巻)

3.踊念仏の系譜

一遍の念仏勧進は融通念仏によったものであるといわれる。だから、熊野で「融通念仏すゝむる聖」(『一遍聖絵』第三巻)といわれたのである。
融通念仏は、良忍が天台教学を身につけ大原の山中にいて声明による念仏をひろめようとした。これに対して一遍は民衆の中にいて民衆とともに往生の機を得ようとしたのである。これは空也に近い。一遍は「空也上人は吾先達なり」(「一遍語録巻下」九十九)といっている。

◆時宗系寺院の盛衰と踊念仏

図表1は、大阪四天王寺が諸堂修覆の助力を仰いだとき寄進した各宗の寺の数(元禄の頃)である。


この数字に示されている寺院が何を根拠にしているのか不明であるが、遊行宗として記録されている時宗教団の数に驚かされる。さらに明治時代になってからの数字(図表2)と比較してみて欲しい。これらの数字は時宗教団の趨勢を知るのに参考になると思う。現在ではもっと滅少している。

歴史的に踊り念仏のおこなわれた寺について見ると、七条金光寺・四条金蓮寺・大炊道場聞名寺・五条御影堂新善光寺・丸山安養寺・霊山正法寺・大津荘厳寺などがあり、時宗の寺僧が踊念仏をおこない、大津荘厳寺の法事には東山法国寺の僧が行っている。また四条坊門極楽寺の空也像の前では毎日踊念仏があった。その他では京極光明寺では宇津宮弥三郎朝綱持仏の阿弥陀開帳があり、大阪四天王寺の短声堂では大念仏を修していた。いま踊り念仏・念仏踊の多くは盆を中心にしておこなわれているが、京都では彼岸におこなわれることが多かったという。



京都東山の時宗寺院 円山安養寺

同 霊山正法寺

◆伝承芸能にみる踊念仏・念仏踊

つぎに踊り念仏や念仏踊りの影響があると見られる踊りのうち今日残存していると思われるものについて、これも思いつくままに挙げてみよう。
図表3 踊念仏・念仏踊系の伝承芸能


これらの踊り念仏・念仏踊のすべてが時宗に関係あるわけではなく、京都を中心にして六斎念仏が盛んであり、空也の鉢たたきの系統の踊も加わっているであろうし、また田楽のはやしに念仏鉦のともなっている程度のものもある。

また一遍の踊念仏の系統のものであるとしても、ずいぶん変形しているものがすくなくない。それはそれぞれの土地で伝承されていた土俗的な踊りと融合して新しい踊りができあがったためそのような形で今日まで伝えられたものとも言える。
◆僧尼から民衆へ-踊念仏のひろがり
『一遍聖絵』では最初の小田切の里での踊念仏を別にすれば、念仏踊をおどっているのはすべて僧尼であり、一般民衆はこれを見ている。前述の諸寺におこなわれる踊り念仏・念仏踊も僧尼が踊ったとある。それが次第に民衆の間で踊られるようになる。

『融通念仏縁起』にも念仏踊のさまが描かれているが、この方は俗人も踊っている。そして寺の本尊のまえで踊っていて、舞台はつくられていない。『融通念仏縁起』の版本は明徳2年(1391)良鎮によってつくられ、肉筆本の方は応永21年(1414)につくられ、版本にしたがって描かれたもののようである。

両本とも室町のはじめに描かれたもので、この頃になると、俗人も踊に参加しはじめていた事がわかる。こうして僧から俗へと除々に踊が拡大浸透していったもののようである。(了)

 …一遍の踊念仏は、まず踊り屋や寺院を舞台として僧尼を中心に広まり、やが
 て風流などの影響を受けながら民衆の間に浸透していったのですね。「一遍の
 踊念仏は盆踊りの原点」といわれますが、高野先生のお話でその具体的な意
 味が明らかになりました。先生、ありがとうございました。

講師 高野 修 (たかの おさむ)

 1935年福島県生まれ、藤沢市在住。藤沢市史編纂室員、藤沢市文書館長等を歴任。
現在 時宗宗学林講師、学習院大学講師。「遊行日鑑」全3巻(1977~79、角川書店)校訂をはじめ、「一遍上人と聖絵」(2001、岩田書院)、「時宗教団史」(2003年、岩田書院)など精力的に時宗研究を発表し続けている。遊行フォーラム会長。