竹富島の歴史

竹富島は、石垣島から6km西南に位置しています。

琉球の伝統的な家並が保存されており、赤い屋根瓦が続く景色は写真やテレビでもよく使われています。アスファルトで舗装された部分はごく一部で、ほとんどの場所が砂の道。素朴な水牛車観光が島を巡ります。
小さな島の中に20を超える御嶽<オン>があります。(沖縄本島では<ウタキ>といいますが、八重山では<オン>と呼ばれます)御嶽は聖地で、集落の森などにあり、この数の多さが古くからの文化が色濃い竹富島の特徴の1つとなっています。

街の中心近くに西塘(にしとう)御嶽があり、島の偉人、西塘が祭られています。

竹富島出身の西塘は、その能力を買われ1500年代初頭に琉球王国の首里王府に仕え、首里城の建築などで功績を残しました。その後、1524年竹富島首里大屋子に命じられて八重山を統治しています。

西塘御嶽(ニシトウオン)

伝承によると、6人の王が竹富島に村を創建したと言われています。14世紀~15世紀ごろと考えられますが、このころ八重山諸島は徐々に首里王府の影響が強まりながらも、それぞれの集落が独自の体制をしいていました。西塘が現われたのはそんな時代な後です。首里王府の八重山統治の安定化と同時に、八重山文化の維持に力を割いたと伝えられています。

アンガマの歴史

アンガマには2系統あります。1つは石垣島の中心部で行われるもともと士族間で実施されたアンガマ、もう1つが離島の農村で行われているものです。竹富島のアンガマは後者にあたります。石垣島のアンガマではウシュマイ(お爺さん)とンミ(お婆さん)が登場し、問答を行いますが、離島系のアンガマでは、ウシュマイとンミは出てきません。歌詞や踊りの形式などは、離島系のものが古い形と考えられています。

アンガマには、盆に行われるソーロンアンガマの他に、節アンガマ、家造りアンガマ、三十三年忌のアンガマがありますが、一般的にアンガマというと、ソーロンアンガマのことを指すこと多いです。ソーロンとは八重山のことばで「お盆」のこと。精霊から転じてソーロンになっており、盆にお迎えする祖先の霊を指していると思われます。

ソーロンは、旧暦7月13日~15日にあたり、日本本土の盆時期と一致しています。したがって、盆行事の風習は日本から伝わったと考えられていますが、八重山諸島にいつ伝承されたのかは、よく解っていません。

アンガマについても、その起源は明らかでありません。

アンガマの語源については、諸説があります。
①姉という意味
②覆面のことを指す言葉
③踊りの種類を指す
④懐かしい母親の意味
⑤精霊とともに出てくる無縁仏

地元の方の言葉によれば、アンガマには親孝行の歌が多く、覆面をする意味も「親の霊に顔向けできないが、感謝の気持ちを伝えたい」という意味があるのではないかということであり、その話の流れから類推すると、④の説が有力かと思います。
柳田国男の説でも「アン、アムj」は母親、「ガマ」は小の意味であるため、母様を指すのではないかとなっています。

歌の中には、念仏や供養を示すものも多く、沖縄本島のエイサーと同じように日本から渡来した念仏踊りを起源とするものとされております。それに八重山独自の踊り、風習が結びついたと考えられます。踊り、音楽については、日本からの直接的な影響は感じられませんが、覆面踊りについては日本各地の盆踊り、例えば西馬音内、津和野などでもみられるものであり、念仏歌とともに、その点には日本盆踊りと通ずる脈があるように思われます。

竹富島アンガマの覆面

ただ、日本から念仏踊りがいつ渡ってきたのかは、はっきりしません。

竹富島には、西地区、東地区、中筋地区3つの場所にアンガマが残っていたということですが、中筋のアンガマは消滅し、現在は西地区と東地区で行われています。
われます。