古戸の歴史については、有名な花祭りの視点からこれまでも数多く触れられて来たところです。

ここでは、「盆踊り」を視点にして、古戸と盆踊りの歴史についての手がかりを探してみたいと思います。

起源伝承-おさま甚句のはなし

東栄町および三遠南信一帯の盆踊りでよく唄われているのが、「おさま甚句」です。古戸盆踊りの起源にかかわる一つの手がかりとして、まずこの「おさま甚句」にからむ伝承と歴史が注目されます。
長野県阿南町新野には、同町も伝わる盆踊り歌「おさま甚句」と瑞光院の由来として、以下のような伝承が伝わっています。
「享禄2年(1529) 仙寿山全久院二世光国舜玉和尚が開き、本尊を聖観世音菩薩とし庵号を改め「祥雲山瑞光院」とし、この開山のお祝いに下田の人達が「おさま甚句」の踊りを寺の庭でおどった。それよりこの踊りが続いている。」

(阿南町郷土芸能調査報告書)

「東栄町誌 伝統芸能編」によると、「おさま」とは「おっさま(和尚さま)」に由来するもので、古戸にも近い三州振草下田・長養院の「光国舜玉(こうこくしゅんぎょく)和尚」がこのおさま甚句を始めたと言われています。

光国舜玉は実在の禅僧で、延徳元年(1489)在地の豪族伊藤氏の菩提寺である下田長養院を曹洞宗に改宗開山するなど(「北設楽郡史 歴史編-近世」)、三州・信州一帯で活躍した人物です。下田長養院の盆踊りでは、現在も7種類ほどの手踊り曲を伝承しますが、その中で「おさま甚句」は必ず最初に踊られる特別な曲となっています。
中世の禅宗・禅僧の中には念仏や真言などを兼修し、また庶民芸能にも深くかかわる者も少なくありませんでした。光国和尚も系譜のはっきりした立派な僧侶ですが、あるいはそのような芸能に理解のある人物であったのかもしれません。

このことと関連して注目されるのが、東栄町に残る天保3年(1831)の古文書「差出申一札之事※」です。この文書から、江戸時代の天保年間前後には、長養院で「ほうか踊り」が行われていたことがわかります。

「ほうか踊り」は、大きな団扇を背にして踊る念仏芸能の一種で、奥三河地方はその主要な分布地となっています。この芸能を伝えた人々は「放下僧」(ほうかそう)と呼ばれ、やはり禅宗系の遊行者なのです。「ほうか踊り」は、古戸の「はねこみ」とはまた異なる系譜の念仏芸能ですが、中世から近世にかけて、東栄町一帯で念仏芸能が盛んであった様子がうかがわれます。

このように、「おさま甚句」の起源にかかわる伝承から、古戸および東栄町盆踊りの歴史についての貴重な手がかりが得られます。

※古文書の一般的な表題
「ほうか」の姿(七十一番職人尽歌合)

 

伊勢音頭系の歌伝承

踊り歌の方からもう一つ興味深いのは、町内に分布する「数え歌」です。「東栄町誌」によると、これは伊勢音頭と関係する音頭と分類されていますが、同じ伊勢音頭系の踊り歌である和歌山県の「川崎踊り」ときわめて近い内容なのです。

和歌山県「川崎踊り」 一つとせ サヨノーエイヤ 一つ熊野のおんだ町 ソーレ米屋の娘にお瑠璃とて この じょうかいなー ハリョーイ、ハリョーイ
東栄町「数え歌」 一つとセーイノサーノエ 一つ本町桑名町 米屋の娘がおるよとて ササソノ、ジョウカイナ (出所:「東栄町誌 伝統芸能編」)

岐阜県の郡上踊り・白鳥踊りでも「かわさき」踊りは人気ですが、これも系譜的には同じ伊勢音頭系の踊り歌です。

伊勢音頭系の踊り歌は、江戸時代の伊勢参宮をきっかけに広く全国に普及した流行歌謡でした。こうした歌詞の比較により、東栄町にも江戸期の流行歌謡が波及していった様子が窺われます。

 

寺院と神社に見るムラの歴史

三州振草・古戸は、中世にさかのぼる歴史をもつ古い集落です。このことは、東栄町周辺に残る歴史的建造物からも知ることができます。

「北設楽郡史」によると「諏訪南宮神社」(東栄町本郷)の神像銘に「正長二年(1429)九月吉日三河国振草郷古戸村夏目九郎右衛門実清作之」とあり、15世紀には古戸の村名と信仰心のある有力者が存在したことが明らかです。古戸朴木沢にある「白山神社」の阿弥陀像も古く、「寛正四癸未年(1463)」の銘があります。京聖が加賀白山より分霊したという伝承も興味深いものです。

16世紀に入ると、享禄二年(1529)四月十日に、古戸の氏神である「八幡神社」が創建されています。ちなみにこれは新野瑞光院の創建と同じ年であり、16世紀前半に周辺地域の信仰の盛り上がりがあったのかもしれません。八幡神社は、盆踊り・念仏踊りのほか鹿打ち・神楽なども行われ、現在も古戸の民俗芸能の舞台として重要な役割を果たしています。

古戸盆踊り・念仏踊りのもう一つの主要会場である普光寺は、江戸時代にできた近世寺院であり、宗門帖も扱う古戸住民の菩提寺です。

開山は元禄七年(1694)とされていますが、遠州浜名郡浜北町竜泉寺の末寺となっています。やはり念仏芸能が盛んな遠州との関わりを彷彿とさせ、いっそうの調査が期待されます。

盆踊りの行われる普光寺境内

最後に一つ、三遠信の芸能史研究の偉大な先達、早川孝太郎の論文から興味深い伝承を紹介しましょう。

早川孝太郎全集Ⅲ巻「盆踊りと盆狂言」)では、かつて古戸では盆の入りに近い七月九日に「神主念仏」(こうぬしねんぶつ)という念仏が行われていたことを紹介しています。神主は、村の柴切り(しばきり=開発先祖)で、美濃から落ちてきた兄弟の年長者と言い伝えられています。中世のムラの開発史にかかわる典型的な伝承のパターンです。この神主念仏には村内の旧家だけが参加し、神主の家に集まって念仏を上げたとのことです。

中世のムラの開発領主のイエの氏神がムラの鎮守となり、その神主(かんぬし)=祭祀者には領主の一族の者があたる、というのは広く見られるパターンです。明治以前はムラの社の祭祀は特別な神職によらず、こうしたイエと共同体が管理することが多かったようです。

また、明治以前はわが国では神仏習合が一般的ですから、古戸に見られるように盆踊りなどの念仏芸能も、神社でごく普通に開催されていたのでした。

(参考資料)
「東栄町誌 伝統芸能編」東栄町誌編集委員会、平成16年※
「北設楽郡史 歴史編-中世 近世、民俗資料編」北設楽郡史編纂委員会、昭和45年
「愛知県史民俗調査報告書3 東栄・奥三河」平成12年

※「古戸盆踊り」部分の下書きを快く見せて下さった町誌編集委員伊藤喜偉様、町誌のご案内と古戸盆踊り紹介のご承諾をいただいた教育長佐々木経人様に、心よりお礼申し上げます。