「おわら風の盆」について誰もが不思議に思う素朴な疑問があります。

①「名称」の問題: なぜ「おわら風の盆」というのか。
②「時期」の問題: なぜ9月に踊るのか。
9月に踊るのに、なぜ「盆」というのか。

これらは盆踊りの歴史を考える上でもたいへん興味深い問題です。
ここでは、こうした素朴な疑問を出発点に、「おわら風の盆」の歴史を考えてみましょう

「風の盆」名称の由来

「風の盆」の名前には、越中・八尾の地理風土が深く込められています。

「風」について

越中八尾は、地形的に強い風の吹く町です。
立山連峰を越えて日本海から吹く風は「ダシ」とよばれ、地域の植生や稲作業にさまざまな弊害をもたらしました。このため、富山の山間の地方では、風神を祀り風よけを祈願する「風の宮」などのお宮や祠が建てられました。

「風の盆」が踊られる新暦9月1日という時期は、この「風」と深くかかわります。

ダシが吹き抜ける井田川
(八尾市内)

9月1日は、もともと旧暦の八月朔日(ついたち)に由来する日程です。この時期がちょうど台風のシーズンと重なるため、昔から農業の暦では旧暦八月朔日の時期には「八朔」(はっさく)、「二百十日」(にひゃくとおか)など特別な名前が与えられ、全国的に風の厄日とされていました。「おわら風の盆」は、この風を鎮めることを祈る踊りとされているのです。

「9月なのに盆」はなぜ?

ところで9月なのに「盆」というのはなぜでしょうか。
八尾町おわら資料館のガイドの方のご説明によると、かつて「盆」という言葉は旧暦7月15日のいわゆる「盂蘭盆会」だけではなく、何らかの節目の日一般を表すという使い方があり、これが八朔にも用いられるようになったのではないかとのことです。

「風の盆」という名称は、こうした季節の節目と自然にかかわる言葉として生まれたと考えられます。

「おわら節」について

次に、歌の面から「おわら風の盆」の歴史を探ってみましょう。

「おわら風の盆」で歌われるのは有名な「おわら節」ですが、この起源についていくつかの説が立てられています。「おわらひ」という言葉を歌の中にはさんだので、「大笑」の歌であるという説、豊作祈願の「大藁節」の略語からきたという説などが有名です。

民謡研究の立場からは、おわら節は「ハイヤ節」系の歌であり、日本海を中心に海のルートで広まってきたものと考えられています。

囃子詞(はやしことば)の分布に着目した佐藤文夫氏の研究から抜粋してみると、

・キタサノサーアー ドッコイサノサッサ       (富山・越中おわら節)
・キッタカサッサ トコ ドッコイ ドッコイ ドッコイナ  (秋田・秋田音頭→西馬音内盆踊り等)
・キタサノサー コラサノサー ドッコイショ     (秋田・生保内節)

など、たいへん類似したかけ声系の囃子詞が日本海に沿って分布している様子がうかがわれます(「民謡の心とことば」佐藤文夫)。

「オワラ」という囃子詞に着目した、三隅治雄氏による以下の紹介も注目されます。

「おわら」を囃子ことばとする北陸各地の歌を詳査した山崎春夫氏が、石川県江沼郡山中町に、寺参りや法事の際に、仏間でも道の往復でも歌う念仏入りの「おわら」があると指摘しておられるのが注目される。
哀愁を帯びた旋律は、仏事の場にも似つかわしいものであったのだろう。
(「夏だ!祭りだ!踊りに行こう」日本放送出版協会)

かつてわが国では、盆踊りや念仏踊り、法事などさまざまな行事の際に「念仏歌」が歌われた歴史があり、現在も古い中世風の念仏歌が残っている地域があります。この説によれば、「おわら節」はこうした念仏踊り系の念仏歌との関連を持つことになり、念仏芸能としての起源の性格をも考慮に入れる必要が出てきます。

踊りの歴史

それでは、踊りの芸能としての「おわら風の盆」の歴史について考えてみましょう。
まず中世には、越中八尾が「都市的な場所」であり、近世に浄土真宗地帯になる以前に、時衆・一向宗などの踊り念仏にかかわる信仰集団の影響があったことが第一に想起されます。
「おわら風の盆」の拠点である聞名寺に残る「融通念仏縁起」は、念仏信仰集団の一種である「融通念仏」の遺物として、中世の八尾地域の念仏信仰の性格を示していると考えられます。こうした踊り念仏系の集団により、最初の踊りのタネが播かれた可能性があります。

「風の盆」の拠点 聞名寺

町の言い伝えとしては、元禄15年(1702)の「町人パレード説」が有名です。当時土地の草分けの商家が所有していた「町建て」の重要文書が役人から返還された祝いに、三日間町民が歌い踊りながら町を練り歩いたのが起源で、これが町の名刹聞名寺における盂蘭盆行事となり、さらに風の盆にうつったというものです。
行事の意味合いが今ひとつ明確ではありませんが、当時は全国的に盆踊りが勃興した時期であったこと、また町家が早くから踊り芸能の重要な担い手であったことなどを考えると、有力町人層が初期の盆踊り開始にかかわったことを示す言い伝えとして、十分検討する必要があります。

これらは町方起源の踊り起源説と言えますが、もう一つ注目されるのは、先ほどの「風鎮め」に関わる村方の起源です。八朔における風鎮めの祭りは、町内大長谷のフカン堂(不吹堂)などで行われ、蓑をつけた人たちの道練り(行進型の踊り)が見られたという話があります。これが豊作祈願の念仏芸能であったとすると、町方とはまた別の有力な踊り芸能の起源があったことになりそうです。

生糸と風の盆

「おわら風の盆」の歴史について、無視できない有力な仮設があります。それは、越中八尾に花開いた生糸産業が「おわら風の盆」を育てた、という産業史の視点です。

江戸末期から明治にかけて、越中八尾は生糸繭の名産地として全国的に有名でした。こうした産業の活発化による町方文化の発達が、「おわら」を花開かせたと考えられています。

「良質繭で名を馳せ、富山藩唯一の生糸交易市場であった八尾町で、七月の盆に三味線・太鼓・胡弓に合わせておわら(女たち)がうたいながら町中を練り歩いたのが起源であるという考え方には説得力がある。」(「越中から富山へ」高井進)

糸づくりと風

実は製糸産業は、「風」とたいへん深く関わる産業です。
全国の生糸産地の多くは、強い風が吹く場所であるという共通点があります。これは、カイコを育てる蚕室を快適な環境に保つため、蚕室を風通しのよい状態に必要があったためです。また養蚕を妨げる桑の害虫を、強風が吹き飛ばしてくれたのです。風は、稲作農業にとっては困りものであったとしても、養蚕業にとってはなくてはならぬものだったのです。

生糸産業の存在は、「おわら風の盆」の開催時期問題についても説得力のある説明を与えます。
養蚕地域では繁忙期がお盆と重なるため、お盆の時期を前後にずらすといった柔軟な対応が全国的に見られました。風の盆は、こうした産業上の理由で「八朔にずらされた盆」としての性格をもつとも考えられるのです。

おわら節の伝播と生糸生産

「おわら」と生糸の関係はまだあります。
八尾で育った「おわら節」は、その後生糸生産を通じて他の地域にまで広がっていきました。たとえば隣接する長野県岡谷(明治期は平野村)はたくさんの製糸工場がある日本一の製糸の町でした。明治期には越中八尾からもたくさんの女工たちが岡谷へ働きに行き、きびしい労働にたずさわったのですが、

「年若い八尾の女工たちは、それでも気丈夫で楽天的で、岡谷までの途中のいくつもの宿で、いろりの周りでおわら節を踊ったといいます。
岡谷市の盆踊りでは、しばらく前までおわら節が踊られていたそうです。少しリズムが速いもののようですが、とても人気があったそうです。彼女たちは八尾文化の伝達者でもあったのです」
(「カイコと八尾」八尾町教育センター)

かつて近世初期には、風害をおそれた稲作農民達による「風鎮め」の念仏踊りが踊られ、近世後期から明治にかけては、「風」のおかげで盛んになった生糸産業の町人たちが「おわら」文化を開花させた・・・。
生糸に着目すると、こんな「おわら風の盆」のもう一つの歴史を描くことができそうです。

補論:踊りの時期について

お盆を過ぎた八朔の時期に踊る風習は、長野県、和歌山県など全国のいくつかの土地で見られます。
盆踊りの延長ないし最終日として「踊り納め」などの名前で踊る地方もありますが、「風鎮め」「風祭り」などの位置づけで踊るところもあるようです。「風の盆」が9月に踊られるのは特徴的ですが、決して孤立した民俗ではないのです。

なお、「旅と伝説」盆行事号によると、富山県滑川地方では戦前のある時期までは盆の13日~15日には踊りはなく、18日から「風の盆」と称して盛んに踊られたという説を紹介しています。これは「風の盆」名称の分布として興味深い情報ですが、もう一つ「富山県」という点に着目すると、浄土真宗の影響による踊り時期の移行という仮説が考えられます。

越中(富山県)は浄土真宗の力が強い中部地方のいわゆる「真宗地帯」の中でも代表的な地域ですが、同宗は「雑行雑修」を厳しく排したため、真宗地帯では民俗芸能や民間信仰への参加が厳しく制限されました。「盆踊り」というのは、成仏したはずの祖霊が戻るという仏説に反する芸能であるため、真宗では当然抑圧します。この取り締まりの目を逃れるため、この地域の民衆があえて13日~15日のお盆の中心時期を避け、まったく異なる芸能という擬装をして盆踊りを踊り続けた、と考えられるのですが、いかがでしょうか。

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