佃島の由来

佃島念仏踊りのはじまりは江戸時代、佃島の歴史と深くかかわります。
そもそも佃島は「徳川家康が江戸入城に際し、摂津多田の廟や住吉神社への参詣のおり、摂津西成郡佃島の漁師が漁船で家康の一行を渡したのが起縁で、天正年間(1573~1591)に、名主の森孫右衛門以下三十四人の漁師たちがこの隅田の中州、佃島に移り住んだのが始まり」(「民謡のふるさとを行く」)といわれ、この由来のため江戸時代には佃島の人たちは「大変な羽振りであった」(同書)ようです。
また別の説では、「徳川家康入府の際、兵糧運搬の功により土地と漁業権を与えられた」(辞典)ともいわれています。
これらの伝承から、大阪佃島の漁民を中心とする初期移住者が、江戸幕府との良好な関係を持ちつつ佃島に新しいコミュニティを形成していった様子がうかがわれます。

佃島念仏踊りと本願寺教団

これら佃島への初期移住者集団は、また本願寺教団の信徒でもあり、佃島への念仏踊りの伝達に重要な役割を果たしたと考えられています。佃島念仏踊りは、「京都本願寺の「チンバ踊り」を伝えたものという伝承がある」(「日本の民謡」)、「念仏踊りに歌われる歌も京都の本願寺のチンバ踊を移したもの」(辞典)というように、歌・踊りとも京都本願寺から移植したという言い伝えが残っています。
ちなみに、「チンバ踊り」は、すでに京都本願寺には伝承されていません。

佃島における念仏踊り開始のきっかけについては、築地本願寺の落成に関わるより直接的な伝承があります。
「佃島盆踊りについて」(佃島盆踊保存会)によると、明暦(1657)の大火(振袖火事)によって当時中央区日本橋浜町にあった西本願寺(別院)が焼失したため、佃島の名主忠兵衛が佃島に近い海際への移築に奔走、幕府の許可を得て佃島住民一統が埋め立て工事に貢献し、「築地」とよばれる埋め立て地を完成しました。続いて延宝8年(1680)には、築地本願寺御堂を無事再建に導いたとのことです。
このときに始められたのが現在の盆踊りの始まりと伝え、その様子は「信仰に厚い漁民は祖先の例を祀る行事として、七月の盂蘭盆の頃には河岸の欄干場に提灯を連ねて、声自慢の若者達が、単調な太鼓の音につれ川風に美声をのせて音頭をとり其の周囲を老若男女が踊り明かして祖先の霊を慰めました」(前掲史料)と記されています。

本願寺教団との関係は、踊り方についての伝承からもうかがうことができます。
遠く滋賀県に伝承される「顕教踊」(滋賀県坂田郡伊吹町神津原)は、一名「チンバ踊り」とも呼ばれていますが、その由来は「大阪木津の合戦で傷を受けた長浜出身の鈴木孫六という武士がビッコで踊ったその所作を取り入れた」(辞典)というものです。
これとよく似た話が佃島にもあります。「江戸時代の初期、石山某という坊さまがいた時、門徒講が二分されて争い、一方の鈴木飛騨守が勝って、その勝ち名のりの動作を踊に表したのが初めで、その時、足が傷ついていたので、その右足を引く動作が盆踊りの振りになった」(辞典)というものです。これらは、チンバ踊りの由来を説明した伝承ですが、離れた土地にありながら共通性の高い情報を含んでおり、京・大阪の本願寺門徒集団にかかわりのある共通の情報源の存在を想定させるものです。

これらの伝承が示すように、佃島念仏踊りは近世における本願寺教団との密接な関係の中で成立したものと考えられます。

記録にみる昔の念仏踊り

本願寺との縁もあり、佃島の人たちは「盆には江戸市中を廻って寄進をいただき、本願寺へ奉納して踊りを演じ」(民謡のふるさとを行く)てきました。このような江戸時代の佃島盆踊りの姿は、いくつかのふるいエッセイに記録されています。

◆「江戸府内絵本風俗往来」(菊池貴一郎著)
「佃踊りは十三日夜より十五日まで毎夜出づ、これは佃島なる老爺、老婆十人、さては八~九人一組となり、佃島と書きたる提燈をともし、鉦打ち鳴らし、ヤアトセ、ヤアトセと囃しては念仏を節にて唱えて、京橋より日本橋の辺りを廻る。招く門にて称名を唱え、鉦うちならして踊るなり。功徳の施物若干を受けて、又他の招きに応ず、無邪気にして見るに面白かりし」
◆「新選東京名所図絵」(明治34年)
「盆踊り、むかしは江戸市中にも行はれしが、ひさしく絶えてなし、唯佃島のみに猶その古風を存し、今に至るまで特許を得て之を行へり。蓋し摂津国佃村より伝へ来りし縁故あるに由る。毎年七月十二日より十六日まで毎夕之を始め、十一時を以て終わるものとす」

これらの記録から、当時の佃島盆踊りは佃島の中心部(現:一丁目付近)での地域共同体の踊りと同時に、江戸市中を巡回・歴訪しつつ勧進する「移動型」の踊りもあわせ持っていたことがわかります。
このように、地域の拠点を巡回・歴訪して踊る芸能は、各地の念仏踊りや盆踊りに多く残されており、盆踊りや念仏踊りの古い姿を示しています。ちなみに、佃島との共通性が指摘される白石盆踊りにおいても、やはり新盆の家を訪問するタイプの盆踊り行事が残されています。
記録によると、こうした巡回型の踊りは高齢者10人程度を中心とするもので、また「鉦」を使う点でも現在の佃島盆踊りとは異なっています。その姿は、むしろ現在各地で見られる「念仏講」に近い形であるように思われます。

こうした「市中廻り」の踊りは、天保2年(1831)町奉行遠山左右衛門尉の改革により中止となり、そのあとは「佃島及び周辺の浜辺や網干場のような空地で踊るようになった」(民謡のふるさとを行く)ということです。また同様の念仏踊りが、「明治までは築地や鉄砲洲でも踊られていた」(辞典)という指摘もあります。

民謡の移動から

民謡の全国的な分布からも、佃島盆踊りの起源についての手がかりを得ることが出来ます。
佃島と同種の曲調のうたは、岡山県白石島など「瀬戸内海をはさんだ中国・四国両地方の沿岸部や島々」や、「山陰から九州の大分県のこれまた沿岸部」(民謡のふるさとを行く)など、瀬戸内海を中心とする西日本の沿岸部に点在しています。
たしかに、「白石踊り」の曲調は、佃島念仏踊りのそれとよく似ています(音源参照)。このことから、この種の唄が「発祥地は不詳ながらも、海路広まり、それがはるばる佃島にも伝えられた」(同書)と考えられています。普及の時期や状況を具体的に示す史料はありませんが、瀬戸内海を拠点とする近世漁民が佃島へのへのうたの普及に一役買っていた可能性が高いようです。
録音:佃島盆踊り
録音:白石踊り

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