8月16日~17日「新野盆踊り」(にいのぼんおどり)

クルマのない取材班…

さて、8月16日。
きょうは今回のツアー最大の目玉「新野(にいの)盆踊り」です。

ただし、この新野へ辿り着くのが実は一仕事。
車なら郡上八幡から山をこえて数時間ですが、ここで「2人ともクルマなし」という、かなり大きなハンデが。
いったん長良川鉄道で美濃太田に戻り、岐阜・名古屋・豊橋を経由し、有名なローカル線「飯田線」で天竜川沿いに北上するしかありません。

「レールがつながっているなら着くだろう」程度に考えていた柳田の認識の甘さに気がついた石光。、時刻表を駆使して組み立てたタイムスケジュールは

「8:30に郡上八幡を出て、夕方新野到着が6:00」

というもの。文字通り1日がかりの、壮絶なローカル線の旅です。
しかも飯田線途中駅では待ち合わせが2時間もありながら、新野行きのバスは午後5:00発で終わりのため、途中どの接続に失敗しても、その日のうちに新野につけません。

2日連続の徹夜踊り明けには、かなりきびしいスケジュールとなりそうです。

静かな朝の宗祇水 早々に朝飯を済ませると、郡上の町を再訪。
石山呉服店に昨夜の踊り浴衣を返します。

あわただしい朝でしたが、やっぱり郡上に来た以上「宗祇水」は見ておきたいところ。朝の宗祇水は人も少なく、冷たい水がすがすがしい感じでした。

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郡上八幡駅へ戻り、長良川鉄道の上りへ。この後車中はとうぜんながら爆睡状態です。

芸能の谷へ!

豊橋で降りて「飯田線」のホームへ向かいます。
空いている車内でゆうゆうボックス席を確保。駅弁とビールを持ち込むと、なかなかいい雰囲気になりました。ローカル線の旅を満喫できそうです。豊橋を出た電車は豊川沿いに北上し、一路天竜川をめざします。

「芸能の谷」。
これから向かう天竜川沿いの一帯は、そう呼ばれることがあります。
このあたりは「三遠信(三河、遠江、信濃)地方」と呼ばれていますが、一名民俗芸能の吹き溜まりといわれるほど、さまざまな伝承芸能や文化が残されているところです。

長良川から天竜川へ。2つの異なる水系は、伝承文化圏もまた異なります。いったいそこには、どんなすごい盆踊りが待っているのか…? ビールを傾けながら、想像に期待がふくらみます。

ディープな長篠の歴史

時間調整のため、「本長篠」駅で途中下車。

今は静かな農村ですが、ここはかつて日本の歴史を大きく変えた武田勝頼vs織田徳川の「長篠の戦い」のあったところで、戦いにまつわる民俗芸能や伝承が数多く伝えられています。

駅の近くに鳳来寺町立「長篠城址史跡保存館」というのがあるようです。時間もたっぷりあるし、これはちょっと見逃せないところ。徒歩約10分ではありますが、お昼の強烈な太陽がこたえます。

資料館の中は文字通り「いくさ」の史料の一大集積。空気が重々しくよどみ、並べられた鎧甲や武器群が暑苦しさを増します。

衝撃的だったのが、長篠の戦いの前哨戦のヒーロー「鳥居強右衛門」(とりいすねえもん)の磔(はりつけ)の図。武田軍の長篠城包囲網を抜けて徳川との連絡に成功した鳥居強右衛門は、帰途運悪く武田方につかまります。彼は武田方をだまし、味方に援軍がくることをを報せてしまったので、怒った武田方に磔にされてしまいました。彼を描いた極彩色というか、ビビッドな色使いの絵は、当時の戦いがいかに凄惨だったか、また人々に鎮魂の必要性を感じさせたかをリアルに伝えているようでした。

天竜川・驚きの大自然

ふたたび本長篠駅へ戻り、さらに鈍行を乗り継ぎ。まったりとした時間が過ぎていきます。山間をぬって進む飯田線。
やがて左手の窓の外がひらけました。

天竜川です。

車窓から望む天竜川

切り立った断崖をまいて、悠然と蛇行する見事な姿です。思わず車窓に寄ってシャッターを切ります。このあたりから、車中雄大な風景が次々と望まれ、すばらしい旅となりました。

水窪、佐久間といった民俗芸能で有名な土地をつぎつぎと通過して、ようやく目的の「温田(ぬくた)」という駅に着いたのは、すでに午後4:00。

降りたのはわれわれだけ。電車が行ってしまうと、そこは寂しい無人駅でした。
新野行きの終バスまで、ここでさらに一時間待ちです。
さすがに1日の長旅の疲れが出て、二人とも待合室で呆然として座っていました。

山間の無人駅・温田

そのとき。
突然、駅の入口付近に大きな虫が現れました。
しばらくその場でホバリングしたあと、猛スピードで突入!頭上のガラスにぶつかり、目を回して落っこちてきました。
びっくりして見ると、これが羽根わたり20cmはあろうかという巨大な「オニヤンマ」。

天竜川の巨大オニヤンマ!

「オニヤンマはスピードがきわめて速いため、仮に捕虫網でつかまえることができても、羽根がボロボロになってしまう」とは石光の解説。
生きたオニヤンマを手にするのが一生の夢だったという石光の夢が、予期せずあっさりかなうことに。記念撮影したあと「リリース」しました。

待合室を出て少し行くと、すぐ目の前に天竜川がひらけています。
橋の上から望むと、夕方の光の中でそれこそ無数のトンボが川面を飛んでいきます。
さすが天竜川の自然、ハンパじゃない。

バスは夕暮れの山並みをぬけて

日も傾きかけた頃。
ようやく新野行きの最終バスが到着しました。

夕暮れの山並み

もちろん乗客はわれわれ2人だけです。

温田駅を出発し、天竜川を渡ると、そこからは坂道をひたすら登っていきます。窓からは、夕映えの赤石山脈の見事な山並みが、延々と望まれます。途中いくつかの集落では提灯がかかっていました。おそらく今晩、このあたり一帯で送り盆の盆踊りがおこなわれるのでしょう。

山道は深い山中を蛇行。暗い森や奥深い渓流を越えて、少しづつ高度を上げていきます。

1時間ほども走ったころ。突然平野が開けました。

のどかな山村の中をバスは進んでいきます。この一帯が「新野高原」です。
標高約1,000mの高原で、昔は三河-信濃をつなぐ交通の要衝だったということです。

新野よいとこ千石平
嫁にやりたやもらいたや
(新野盆踊り歌より)

バスはさらに少し走って街道筋に入り、中程で止まりました。
薄暮の中、ようやく「新野」のまちに到着です!

「送り火」に感激

バスを降ります。
通りをよく見ると、家々の前の路上で、何か小さな枝のようなものが燃えています!

「送り火だ!」

点々とともる送り火

早くもゾクゾクしてきました。さっそく通りを進んでいくと、おじいちゃんが、お孫さんたちに送り火の焚き方を教えています。
ほのぼのとした光景です。

「送り火」というものがあることは知っていました。しかし、実物を見るのは柳田はこれが初めて。多くの地域ではすでに失われてしまった習俗だし、盆踊りと送り火の両方が残る新野は、さすが貴重な民俗を残す地域、とすっかり興奮。
ところが石光はけげんな顔。あとで聞いたら、石光家はいまも家で送り火をやっているので、別段珍しくもなかったそうです。

送り火で先祖を送る

とはいえ、夕暮れの山里の送り火の光景は、しみじみとした感動を与えてくれたのでした。

二人ともすでに相当疲労の色が濃くなってきました。

ここは腰をおちつけたいところですが、なにせ本日は「宿無し」。旅館の少ない新野では、すでに予約が一杯で、結局一部屋もとれなかったのでした。今夜はとうとう本当の徹夜です。唯一のたよりは、役場の人から得た「仮設休憩所があって、仮眠ができる」らしいという事前情報だけ。通りを歩いていくと、たしかに通り沿いの民家の一階が開放されているようです。これで、とりあえず少し安心。

街の食堂に落ち着いて、夕食をかねつつ今日の踊り&取材戦略を練ることにしました。
店内は、見物客や地元の人たちですでにけっこう賑わっています。名物「五平餅」定食とビールで栄養補給。
隣の席には、やや年輩の女性が一人きりで食事をとっています。聞いてみると、かなり遠くからこの盆踊りを見に来たとのこと。やっぱりいました、盆踊りファンが。

「切子灯籠」集まる

午後8:00。

夕食を終え、一息ついて外へ。町はすっかり夜の闇につつまれています。

通りの中央の踊り櫓付近では、ぼちぼち盆踊りの準備が始まっているようです。踊り保存会前のベンチに陣取って待っていると、急に事務所の前に軽トラックが一台止まりました。デジカメを構えつつ、見るとトラックの荷台には見事な「切子灯籠」が…! 新野では、その年の新盆(新仏)の家で使われた灯籠を、この日に互いに持ち寄り、踊り櫓の周囲に飾るのです。

その後切子灯籠は次々と到着し、今年は全部で「23個」(と聞こえました)。つまり、新野で今年亡くなった人は23人いた、ということがわかるのです。

切子灯籠が到着

櫓の周りに吊していく

記念撮影も

奥美濃地方の盆踊りでは、切子灯籠は抽象化されたものでした。ここの切子灯籠は、まだ人の「死」のリアリティを持っています。お盆の最終日である15日夜、切子灯籠は踊り櫓の周囲に飾られ、その周りで地域の人たちが夜を徹して踊り明かします。文字通り新精霊とともに踊る盆踊り。だから、盆の主役は新精霊であり、またその家族といえます。おそらくは中世にさかのぼる、忘れられた盆踊りのこころを、今なお新野では見ることができます。

踊り櫓の準備ができあがるのを見たり、付近を散策しながら踊りの開始を待ちます。ところが、さっき見た「仮設休憩所」では、なんだか人が集まって講演会らしきものが始まてしまいました。「あとでちゃんと寝かしてくれるよね?」と、休憩所頼みのわれわれはまたまた不安に。

踊りは子どもたちから始まった

9:00。

ようやく盆踊りが始まりました。
都会の盆踊りであればもうお開きになろうかという時分です。

最初踊り始めたのは、普段着の小学生や中学生たち。それもぽつぽつという感じです。踊りもちょっと恥ずかしがって、あまり揃っていなかったりします。

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ここ新野はあくまでコミュニティが中心の盆踊りで、、雰囲気はいたって素朴です。観光客の賑わいや喧噪とはまったく無縁の、しっとりとした盆踊りです。

踊りが始まる

これまで見てきた盆踊りと異なるのは、新野では「扇」を使うことです。

踊り子はみんな帯に扇を一本差していて、4種類の踊りでは、これを広げて使います。持ち方も、親骨を指でつまんだり、要(かなめ)の部分を持ったりと、バリエーションがあって興味深いものです。扇を使うのは、伊勢音頭の影響という説があり、各地に扇を使った盆踊りが残されています。

新野では扇が必須

呉服店もいろんな扇を扱う

いっぽう足ごしらえは草履の人が多く、下駄の人はあまり多くありません。

それから、非常に大きな特徴は、ここではお囃子・太鼓を使わず、肉声だけで音頭をとることです。櫓の上では、アカペラの主唱者に何人かが声をそろえて音頭を取り、踊り子の方はこれに合いの手やかけ声を返して応えます。むかしながらの、素朴な「掛け合い」のスタイルです。郡上あたりも、大正ころまでは同じような感じだったようです。

「休憩所」に倒れ込む

10:00過ぎ。

踊り子の数も増え、盆踊りはだいぶ賑やかになってきました。

踊りはぜんぶで7種類あり、うち6種類が繰り返し踊られます。「踊りは足から」といった一般原則も知って、踊りを覚えるのには多少自信がありました。しかし、ここの踊りは扇をつかう(少し「舞い」に近い感じ)ものが多いためか、慣れない扇の動きに気をとられてなかなかコツがつかめません。

舞に近い「扇踊り」

こちらは元気な「手踊り」

囃子のない新野の盆踊り歌頭は素朴で素敵なのですが、この時間帯はけっこう単調でキツイ感じです。

さすがに「徹夜踊り3日目」という疲労もあって、11:00を過ぎると厳しい眠気が…。
古い民家の町屋の一階にある例の「仮設休憩所」をのぞいてみます。どうやらさっきの「講演会」も終わった様子。はじに毛布が積んであり、すでに見物客らしい何人かの人が毛布を敷いて早くも寝込んでいる様子。われわれ2人も、これさいわいと上がり込み、荷物を枕に毛布に倒れ込みます。

未明にあるという神秘的なクライマックスだけは見逃したくない。あまり深く寝込まないようにしなければ…

高原の夜に踊りは冴えて

午前2:00ころ。
目を開けてふと外をみると、踊りの輪がゆっくりと玄関前を通り過ぎていきます。

結局、疲労と興奮のためか柳田はほとんど眠れず。明け方まではまだかなり時間がありましたが、「折角だから踊りを覚えていこう」と思い直し、起きることに。そっと外へ出てみると、踊り子の数はぐっと減り、輪もだいぶ小さくなっています。

盆踊りは佳境に

6種類の踊りが続く

さすがに標高の高いところだけあって、真夏とはいえ夜は肌寒さを感じるほど。

ツアー3日目のきょうもまた、美しい満月です。冴えた月明かりが古い街並みに影を落とし、踊りの輪がしずかに廻っていきます。どうやら盆踊りは佳境に入ったようです。なんとも言えぬ、幻想的な雰囲気の踊りになりました。

この時間になると、踊り好きの人、うまい人だけが残っているのでしょう。振りもよく揃ってきたようです。
輪に混ぜてもらい、時間を忘れて踊るうち、少しづつ踊りにも慣れてきました。少し横になったためか、頭もはっきりし、からだもだいぶ楽になったようです。踊りの輪の向かい側には石光。

夜中の街で、6種類の踊りが延々と繰り返されていきます。

明け方の盛り上がり

すこし様子が変わってきたのは、明け方5:00をまわって少し明るくなり始めた頃です。
小さかった踊りの輪が、いつのまにか少しづつ大きくなってきています。

踊りの輪が広がって

小学生くらいの小さな子供も、親に手を引かれて眠そうに目をこすりながら、踊りの輪に入ってきました。

時とともに踊りの輪は急速に広がっていき、ついには通りの端から端まで、いっぱいの人が同じ輪で踊っています。いったいどこにこんなに人がいたのか、というくらいの人数です。

おそらく、年に一度の盆のクライマックスに参加しようと、地域中の人が集まってきているのでしょう。
午前6:00を過ぎるころ。踊りの輪の中に動きがあります。

保存会らしき人たちが、集まり始めました。踊りの輪が淡々と廻る中、中央の踊り櫓に飾られていた切子灯籠が、一つづつ降ろされていきます。切子灯籠は、道の真ん中に2列に並べられました。
それぞれの灯籠には小学生くらいの子供が一人づつ付き添っていきます。どうやら、新盆の家の子供の役目のようです。

朝日ものぼり、だいぶあかるくなってきました。
踊りの輪の中では、灯籠の列の前後を守るように、保存会の世話人の人たちが並んでいきます。七夕の笹のような飾りを持っている人もいます。列の先頭には、修験者の姿も見えます。

灯籠を持った少年達が立ち上がると、行列が進み始めました。

切子灯籠が並べられる

進み始めた行列

 

 最後の踊り「能登」

行列は、踊りの輪を突き抜け、一路町外れに向かって通りを進んでいきます。

やがてその姿は小さくなり、かどを曲がって視界から消えていきました。どこか人々に見えない場所で、儀式が行われるようです。カメラを持った人たちが、後を追ってついていきました。
ちょっと迷いましたが、会場の方でもなにかありそうなので、こちらに残ることにしました。

会場の踊りは最後のの踊りである「能登」に変わりました。

「能登」は、1年に1回、この盆の最後のひとときだけ踊ることが許されているという、神秘的な踊りです。 扇は使わない手踊りで、ときどきこぶしを突き上げる仕草が印象的です。

能登へ能登へと 草木はなびくよ
あさっちゃ祇園の あとやさき
新野盆踊り「能登」歌詞より)

少し哀調を帯びた、ゆったりした音頭。ここからは本当に地元の人たちだけの行事であるような気がする、とても雰囲気に満ちた踊りです。
踊りの輪を外れ、カメラをセットアップ。ここからは、いよいよ神秘の行事の取材に徹することにします。

最後の踊り「能登」

踊り神送り

会場では、いぜん「能登」を踊り続ける人たち。しかし、次第に緊張感がただよってきます。

行列が出ていってから10分ほどたったでしょうか。
突然「ドン、ドン」という鉄砲の音があたり一帯に鳴り響きました。なにかの合図のようです。踊りはいよいよ熱がこもってきます。

やがて、遠くの方から灯籠の行列が戻ってきました。手鉦をじゃんじゃんならし、口々に「ナンマイダンボ」「ナンマイダンボ」と唱えつつ行進してきます。これは古い中世の念仏芸能の伝統が残る唱え言葉。

見たこともない、異様にインパクトのある集団です。

戻ってくる行列

「ナンマイダンボ」の声

実にこれこそが、新野のお盆の終わりの光景なのです。

戻ってきた灯籠の行列は、いまやまさに「お盆」そのものとなっています。「お盆」の行列の手前はまだ「夏」で、後ろはもう「秋」なのです。そのため、ここでは、過ぎゆく夏と秋の到来を文字通り目の前で見るという、非常に珍しい体験をすることができます。

そして、「お盆」の行列が自分たちの前を通過してしまうと、人々は次々と踊りをやめて行列の後ろに従っていきます。「お盆」が過ぎて秋になったところでは、もう来年のお盆まで踊りを踊ることは許されないのです。

「生」と「死」の交錯
突然、道の真ん中に7~8人の若い男女が飛び出しました。
スクラムを組んで踊り始めます。猛烈な早さで唄っているのは「能登」の踊り歌のようです。

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若者たちはぐるぐると踊り回りながら、行列の行進をさえぎってしまいました。

スクラムが行列を止める

「お盆」の行列は、スクラムの前でいったん立ち止まりましたが、やがて動きだしました。

屈強の世話人たちが若者のスクラムに手をかけ、一人ずつひきはがしていきます。最初は手加減していましたが、やがて双方とも本気になってしまい、喧噪の中でスクラムは蹴散らされてしまいました。
おそらくかつてはスクラムを組む方にいた若者が、いまは年を経て、輪を壊す方にまわっているのでしょう。そして、「ナンマイダンボ」を唱えつつ、再び切子灯籠の行列が堂々たる行進を再開しました。

しかし若者達もあきらめてはいません。すぐに起きあがり、「お盆」を10mほど先回りすると、またしてもスクラムを組んで抵抗します。すでに踊りを止めた人たちも、これを見ようと一斉に移動していきます。そして再び行列がスクラムの中につっこんでいく。 もう、踊る方も見ている方も、興奮は最高潮です。

全くすごい光景でした。

最後の気合いを入れて

家々の窓からも応援

阿満利麿「宗教の深層」(ちくま文庫)では、このシーンを「生(青年)と死(切子灯籠)のせめぎあい」と表現しています。しかし、結局は「死」が勝利を収めます。「これは無常の姿そのものではないか」というのが、阿満氏の洞察です。

一人の中学生くらいの子が、お父さんに背中にを押されてスクラムに入ってきました。最初ははにかんでいましたが、あっというまに興奮の渦に巻き込まれて、夢中で踊っています。2・3年後には、彼もスクラムの中心になっていることでしょう。そして、家々の2階からは、それを見守るまなざし。このひととき、この場所にいる人たちの表情の変化と豊かさは、とても言葉でいいあらわせません。

若者たちの抵抗は幾度も幾度も繰り返されましたが、通りの端まで来たところで、とうとうあきらめたようです。「お盆」の行列を先頭に、踊り子や見物客もみんな後に続き、町外れに向かって進んでいきました。

時間はすでに7:00。
もうすぐ始発バスの時間です。
時間的にも体力的にもリミットとなったわれわれは、通りの端で行列を見送ると、朝の光の中を静寂の戻った街並みへと戻りました。

町外れへ向かう人々

静けさの戻った町並み

お盆をしめくくる「秋歌」
結局我々は見ることができませんでしたが、このあと行列は町外れの寺の裏山に登り、墓場の前で切子灯籠を並べます。みんなが見守る中、修験者が真言を唱え、やにわに刀を抜くと、灯籠をバッサリと切り捨てます。その後、灯籠を燃やし、霊送りの鉄砲を放って、お盆の行事が終わるそうです。

面白いのは、行事の終わったあとはみんな後ろを振り返ってはならず、逃げるように急いで帰ってくるということです。後ろを振り返ると、いま送り出したばかりの霊が未練を持って、ついてきてしまうのだそうです。「たま送り」の伝統の精神文化が、ここにも表れています。

そして帰りの道々に、みんなで「秋歌」を口ずさみます。

秋が来たそで鹿さえ鳴くに
なぜか紅葉が色づかぬ
(新野盆踊り「秋歌」より)

盆の去ったことを精霊達に告げるとともに、生きている人たちに対しても楽しいお盆休みの終わりを確認する歌で、明らかに盆踊り歌とは雰囲気が異なるものです。
こうした秋歌は、いまでは九州宮崎の椎葉村周辺など、いくつかの地域にしか残されていないそうです。

帰りのバスが、温田駅につきました。

さらば天竜!

最終日もよく晴れて、寝不足ながらも気持ちのいい朝です。
電車の待ち時間に、駅裏手の高台に登ってみました。眼下はるかに美しい天竜川の清流が滔々と流れています。向かいの河岸に目を転じると、少し高くなっているあたりに、山村が点在しています。三遠信地方は、天竜川の生んだきびしい自然地形で隔てられた山村が多く、このことが貴重な伝統文化を現在に残す一因になったようです。

はるかなる天竜川の流れ
飯田線の車内から天竜川を眺めつつ思い起こすと、3日間の徹夜踊りはそれぞれに印象的であり、特に新野の体験は驚きでした。

まだまだ未知の盆踊り、未知の日本文化が全国で眠っているはずです。来年もまた、新しい驚きと感動を求めてぜひ次の盆踊りを訪れたい、そんな気分のうちに、取材班の2000年の盆踊りシーズンは終わりました。
(終)