日程

現在の毛馬内盆踊りは、8月21日より3日間です。
お盆の中心である8月13日~16日よりも遅い「後半型」の日程です。同じ秋田の西馬音内盆踊りなど、東北地方などでしばしばみられるパターンです。
期間については、柳沢兌衛氏の「毛馬内の盆踊」によると、以前は1週間も続いた時期があったそうです。毛馬内盆踊りが盛んであったころの様子がうかがわれます。

時間

夕方から夜間にかけて踊られるのが、毛馬内盆踊りの伝統的な時間帯です。
昔は夜更けまで踊られたこともあったらしく、他の地方同様徹夜踊りが見られたようですが、現在は風紀上の配慮などから、10時ころまでには終わるようになっています。
また、子どもの踊りコンクールなどは、夕方の遅くならないうちに踊られています。

場所

毛馬内の町通りが踊り場です。特に伝統的に中心となってきたのは「本町通り」の上町・中町・下町などです。盆踊り振興会の本部が通り中央部(中町)に置かれます。
踊りの輪は通りにいっぱいに広がり、踊り子は内側を向いて踊ります。会場の広々とした道路は、よい踊り場となっているようです。

「…観る人の場所があるので踊子達は、こゝろものびのびとおどる事が出来るそれに道路の巾がおどる場所に適当している…」
(「改新乃鹿角」紙:昭和28年8月20日)

柳沢氏の前掲書によると、大正時代には「古町」で、また昭和二十~三十年代には五軒町、下町、横丁萱町、陣馬、下小路といった各町通りで開催されたこともあるそうです。

このほか、子どもコンクールや横丁萱町開催の際に小学校の校庭で踊られたこともありましたが、「伝統的な踊りのムードが損なわれる」といった理由から、また昔通りの町での踊りに戻されています。

「毛馬内盆踊」(鹿角市教育委員会)の座談会では、町外の会場などで大きな輪踊りで踊ろうとしたり、演出のため外向き(背中あわせ)の輪で踊ろうとしても、まわりの人の踊りと合わせにくかったたりしてうまく踊れない、といった発言が見られます。
結局町の通りで長細い輪をつくって踊るという、長い時間を経て磨かれてきた伝統の踊りスタイルがいちばん踊りやすいということのようです。

“鹿角盆踊り圏”の構造

毛馬内盆踊りの十和田地区をはじめ、八幡平地区、花輪地区、大湯地区など鹿角地域一帯の多くのムラ・マチで、盆踊りが楽しまれてきました。興味深いのは、鹿角地域全体として見て、盆踊り日程のゆるやかな地域構造が見いだされることです。

「鹿角市史」「毛馬内の盆踊り」によると、鹿角地域では8月13日・14日のお盆のころより、まず近在の村々でそれぞれのムラの盆踊りが踊られ始めます。

「8月に入ると近在の村々では神社の境内や広場などで太鼓を打ち鳴らすようになる。毛馬内の町へはこの懐しい太鼓の音が山々にこだまして稲田を渡って響いてくる。
やがて盆の終り頃になると近在の村々で盆踊が行われ、二十日盆が終わるといよいよ毛馬内の盆踊りが行われる。」

(柳沢兌衛「毛馬内の盆踊」)

お盆の行事は16日に終わりますが、さらに20日か21日に盆の終わりといって、送り火を焚いたり盆棚を外すといった「二十日盆」の行事が行われる地域もありました。そして、二十日盆が終わるころに、ようやく毛馬内や花輪などのマチの盆踊りが壮大に開催されることになります。花輪の町踊りは、「九月の中頃、仲秋の明月まで続く」(鹿角市史)ということですから、相当な長さです。

ここには、近郷のムラ・マチの間で盆踊りの時期をずらすことにより、少しでも長く盆踊りを楽しむとともに、それぞれの盆踊りをにぎやかにしよう、という意図が読みとれます。これは古くから全国に見られる庶民の盆踊り戦略であり、鹿角地域の例もその一つと考えられます。ただし、鹿角地域ではたいへんはっきりした日程-地域構造が見受けられるのが特色です。
鹿角の例では、第一に村方の盆踊りと毛馬内・花輪など町方の盆踊りの間の対比が見られます。
これは「ムラの踊りとマチの踊り」という、より一般的な盆踊りの類型問題にも拡張できそうな、広がりのある視点です。鹿角地域ではどちらが先にはじまったのかといった歴史の話、マチの踊りの華やかさといった衣装・芸態の話、周辺農村部と都市部の集客力の相違の問題などとも関係してきます。

第二に、二十日盆を境とする「盆中の踊りと盆後の踊り」ともいうべき時期の構造が見られます。これは「盆踊りの枠組み(踊りの日程)」でも触れたいわゆる「後半型の日程」とも関わる問題です。

鹿角盆地・美しい稲田と山々
<040821・鹿角市 >
小寺融吉氏は「盆中の踊りは精霊のため、盆後の踊りは人間のため」という仮説を提示されていますが、鹿角でマチの盆踊りが盆後に行われていることと考え合わせて見ると、面白そうです。

第三に、こうした地域構造は近現代の変動を経ても崩れなかったことから、かなりしっかりした構造なのではないかと思われます。
旧暦盆日程から8月盆日程に変わった時期には、どのような地域間の調整力学が働いてこの日程構造が残ったのでしょうか。また、 「毛馬内盆踊」(鹿角市教育委員会)所載の座談会によると、毛馬内では戦後8月15日頃に踊ったこともあったようですが、近隣の花輪囃子や大湯の大太鼓などの行事とぶつかって踊り子が減ったため、結局昔ながらの二十日過ぎに戻した、という試行錯誤の経緯があったことが語られています。

このように見てくると、毛馬内の盆踊りはけっして毛馬内のまちや十和田地区だけで単独で存在しているのではなく、より広い鹿角の地域の盆踊り構造の中に位置付けられてきたのではないかということが予想されます。鹿角地域の人達は、長い時間をかけて地域内の盆踊りの開催日程を調整し、お盆から8月末・9月にいたる各地の踊り日程を意識しながら、踊りの季節を楽しんできたのでした。“鹿角盆踊り圏”ともいうべきこうした地域構造の存在を、毛馬内盆踊りは教えてくれています。
 
(参考資料)

「鹿角市史 第四巻」鹿角市、平成8年
「毛馬内の盆踊り」柳沢兌衛、平成11年※
鹿角市文化財調査資料13「毛馬内盆踊-昭和54年度文化庁記録選択事業報告書-」鹿角市教育委員会、昭和55年
「改新之鹿角」昭和28年8月20日
「毛馬内北の盆パンフレット」毛馬内北の盆実行委員会、平成16年

※本ページ作成にあたり、ご著書よりの引用をご快諾いただきました柳沢兌衛氏に、心より感謝いたします。

 
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