常光寺と行基伝説

流し節正調河内音頭の舞台となる常光寺。その起源は、奈良時代にまで遡り、行基が築いた二十五のびょう壇(墓地)を起源にしていると伝えられています。開基は天平17年(745年)といいます。行基(668~749)は、はじめ薬師寺に入り教義を学んだ後、民間に布教をはじめ、時の政府から弾圧をうけました。しかし、後に政府もその力を認め、行基は聖武天皇の大仏造営に協力しています。諸国を巡遊し灌漑等の社会事業を行っていますが、その範囲は河内を中心に、大和、摂津、山城に及んでいたようです。現在、全国各地に行基伝説が残っていますが、行基の実際の活動半径を考えると後世、民衆宗教として仏教が広がった鎌倉時代以降に形作られたものと考えられています。しかし、河内は、行基がまさに活動してい地域であり、単なる伝説にとどまらない意味合いがあります。常光寺は、行基という民衆を支えにした僧侶の手により作られた寺という起源から、その後、地蔵菩薩を本尊とする庶民信仰につながり、常に民衆の力により支えられ地域に根付いてきたのです。

常光寺と小野篁

常光寺は地蔵信仰の寺として知られます。地蔵菩薩を本尊としていますが、この像を彫ったのは、小野篁(おののたかむら 802~852)といわれいます。小野篁は、漢学者で「令義解(りょうのぎげ:養老律令の注釈書)」の編集にも参加した文武に優れた貴族でした。事実上最後となった遣唐使で遣唐副使に任ぜられましたが、その際、大使の藤原常嗣と良船のとりあいで争い、乗船を拒否、後嵯峨上皇により隠岐へ配流された事件で有名です。地蔵菩薩を彫ったのは、この隠岐配流時代だったと伝えられています。結局、1年2ヶ月という短期間で罪を許された小野篁は、その後、官人として、そしてその文才においても活躍をします。古今和歌集に歌が残されておりますが、万葉集の影響がまだ残る、素朴な歌が多いようです。小倉百人一首にもある「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよあまのつり舟」(海原を、島々へ向けて船出したと、愛しい人に告げてくれ、漁師の釣舟よ。)が有名です。これは隠岐に流されるときの心情を詠んだものです。また、篁は後に冥界と通ずるものとしておそれられ、今昔物語にも地獄と行き来して閻魔さまの手伝いをしているという話がのせられています。京都の六道珍皇寺には、篁が冥土との行き来に使ったといわれる井戸が残っています。これら伝説は、不遇な流人時代の物語が世間に浸透した結果と考えられます。ただ、流された後、中央政界に復帰したことで、祟り神という形でなく、地獄と行き来する者という、復活者的なイメージで語り継がれることになったようです。篁が冥界で人を救う逸話は、地獄の苦しみから庶民を救う地蔵信仰へとつながります。京都伏見の六地蔵、嵯峨薬師寺地蔵など篁にまつわる地蔵の伝説は様々あります。また、こういった民衆的な逸話により常光寺は、その庶民の寺という位置づけをさらに強めていったと考えられます。

冥土通いの井戸ののぞき窓

六道珍皇寺

常光寺再建と八尾の流し

常光寺の再建に力を貸した、又五郎太夫藤原盛継という人物の伝説が残っています。又五郎太夫は商人の出でしたが、地蔵菩薩に深く帰依し、その功徳によって疫病から救われたとされています。南北朝時代、傷みの激しくなった常光寺は、この又五郎太夫の手により至徳年間(1384~1386)に再建をされました。このとき、時の室町将軍、足利義満が、本堂再建のため、造営用の木材を寄進したということです。その材木を京から淀川、大和川を経て運搬した際、指揮者が音頭をとり、運搬者は掛け声をかけた、これが流し調の「木遣り音頭」となったのが「流し節正調河内音頭(八尾の流し)」の原初だと伝えられています。
実際のところは、よく解っておりませんが、地蔵盆に踊られるこの「八尾の流し」は、上記に述べたような地蔵信仰を中心とした常光寺の庶民文化とともに育ってきたことは間違いないことだと考えます。

河内音頭の源流

常光寺の「正調流し節河内音頭」が現在の新河内音頭の源流である、という節があります。ただし、これについては諸説があります。村井市郎氏の有力な説によれば、現在の新河内音頭は河内音頭の元節(交野節:現在大阪守口市の寺方提灯踊りにて歌い継がれている)を元祖とし、明治・大正の変遷を経て、戦後昭和30年代に現代の型になったということです。「流し節正調河内音頭」については、主流の河内音頭とは、少し系譜が違うようです。この踊りはもともと「流し」または「八尾の流し」と呼ばれておりましたが、昭和初期にSPレコードに吹き込みされたとき「河内音頭」という名をあてられたため、その後河内音頭の仲間に加えられたようです。いずれにしても、河内地方で踊られる音頭の中で最も古い形を残した踊りであることは間違いありません。新河内音頭は、皆さんご存知のとおり、現代非常な広がりをもち、関西圏のみならず、東京錦糸町など、他の地域でも踊られる、非常にエネルギッシュで進取の精神にあふれたものです。流し節正調河内音頭は、物語をもとにした口説き調という意味では、新河内音頭と同じですが、その音楽はゆったりと趣深いものです。現在は、地元の人たちが保存会を結成し、伝承活動をしています。新河内音頭も大変楽しい踊りですが、このゆるやかな正調河内音頭も是非大切にしてきたいものです。1996年(平成8年)に環境庁の「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。

参考資料:「河内の音頭いまむかし」(村井市郎著 八尾市役所発行)
「(あしたづ5)「流し節正調河内音頭と常光 寺」(河内の郷土文化サークルセンター発行)
「河内 社会・文化・医療」(森田康夫著 和泉書院発行)

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