大分県(旧国名:豊前・豊後)は、中世後期以降現在に至る期間を通じて盆踊りが盛んなところです。
念仏踊り・風流踊りなどにつらなる古い側面もよく残されていますが、特に県下の盆踊り文化は近世(江戸時代)に “全面開花”した感があり、数百曲もの伝承系踊り曲がいまも現役で踊られています。近代以降も、各地域の人々の努力によって盆踊りは隆盛し、県民に親しまれる新民謡や新作音頭も数多く生まれました。
伝承系の盆踊りといえばかろうじてポツポツと認められるだけというところが増えた現在、全県域にわたり伝承系盆踊りの”面的”で濃厚な伝承が見られる大分県は、日本の盆踊り文化にとって貴重な地域の一つであるといえます。
全国的に有名になった「姫島盆踊り」を除いて、これまで大分県の盆踊り文化についてはまとまった研究も少なく、県外にはほとんど知られてこなかったようです。言い換えれば、土地の人が自ら楽しむ地域文化として継承・発展してきた側面が強いといえるでしょう。
以下にご覧いただきますように、大分県は「盆踊りの宝庫」ともいうべき稀に見る豊かで多彩な盆踊り文化を伝承する地域です。そのゆえにこそ、21世紀に入った現在、継承の重要性と難しさがともに高まっているのです。
1.全般的特徴
◆踊りの多様性
大分県の盆踊り分布の一大特徴は、その踊りの多様性です。
江戸時代の「小藩分立」という歴史的経緯や、複雑な自然地形に隔てられた小集落が多いという地理風土が影響し、同じ地域の隣り合うムラ同士で同じ系統の踊りの芸態が激しく違う、あるいは同じ名称の踊りでも芸態・内容がまったく違う、といった状況が珍しくありません。
大分県には全県的な民謡が少ないといわれるのも、同様の理由と考えられます。
このことは、第一に全県的にポピュラーで大きな系統を構成しているいくつかの伝承系踊り(左ヱ門、三つ拍子等)について、多彩で微妙な地域バリエーションを多く生み出すことになり、地域レベルでの踊り芸態の伝播・変遷研究の貴重なケースとなりました。
第二に、県下に移入された多くの種類の踊りがよく蓄積され、結果として数多くの踊りが現在に伝わることとなったことが挙げられます。
これらの結果として、大分県の豊かな盆踊り文化伝統が形成されたといえます。
このように踊りの伝播と地域における深化・個性化の弁証法が働いた結果を広範に見渡すことのできる大分県は、盆踊り研究の上でたいへん興味深い地域です。未収録・未分析のデータが豊富に存在する点も魅力です。
◆宗教・信仰的性格
大分の盆踊り文化は宗教的色彩を色濃く残し、全県にわたって古い盆踊りのかたちをよく残しているといえます。
特に新盆供養を強く意識した「供養踊り」という言葉が県下で現在も広く使われており、ほとんど盆踊りの一般名称としての使い方をされています。
取材班が杵築の旅館を予約した際も、電話で「盆踊りを見にいきます」と言ったら、「ああ、供養踊りね」と言い直されました。
「庭入り」という貴重な盆行事も残っています。これは特に新盆供養の場合の盆踊り連行事を指すもので、湯布院地方などいくつかの土地で伝承されいます。
「入端」「出端」といった風流踊りの形式を彷彿とさせ、歴史の古さを感じさせる言葉です。
盆踊りの踊り場に、古風な精霊棚や踊り台を設ける点も、供養踊りとしての「実」をよく示しているといえるでしょう。
踊りの構成では、盂蘭盆の踊りの由来を説く宗教色の強い「ばんば踊り」を必ず最初に踊る、という儀礼的構造が広く見られます。ばんば踊りを伝承しない(おそらく三つ拍子と交代した)地域では、「三つ拍子」を必ず最初に踊るという地域が多く、現在ではむしろこちらのケースが多いようです。
◆歴史的特徴
大分県の盆踊りの歴史的な特徴としては、まず第一に、戦国期の地方大名による風流踊り招聘例としてたいへん有名な大友義鎮(宗麟)による風流踊り開催の記録を有することが特筆されます。
壱番 佐伯紀伊介惟教 小原木
道行 小原木、小原木召せや黒木召せめせ
小原木しず原せれうの里
(以下歌詞略)
踊子 女の仕立にて肌には朽葉の練を着てぬきがけにして、
白きくくりほらし其の端を長く下ぐる。
前は金襴なり、小原木を金にして松の作り花の枝に真紅の
縄にて結びつけ持て踊る。
中踊も、金の小原木を裁き或は荷ひて踊る。傘鉾あり。
弐番 田原近江守新堅入道紹忍 芭蕉
道行 あり
(中略)
一、宗麟公 踊りの御返しに「吉野静」の御能一番あり、太夫保昌
権太夫なり。
一、義統公 御返しは三輪の踊なり。
踊り子金幣を持ちて、中踊同前三間斗の金幣真中に立つなり」
(「大友興廃記」巻十一)
中央に「作り山」を設け、着飾った踊り子が踊る古風な風流です。開催は、やはり盆月ですね。
大分県南地方には、中世後期-近世初頭に流入したと見られる風流踊りの分布も見られますが、踊りの芸態の重要な部分は上記の記録と共通するという研究もあり(「豊後風流の研究」)、注目されます。
この他、史料的な問題はあるようですが、「大友記」「西国盛衰記」などの書物でも永禄年間の話として宗麟と踊りのエピソードを載せています。この時の踊りの名称として、現在も踊られる「三つ拍子」の名前も出ており、県下ではよく知られた話となっています。
第二に、近世江戸期を通じてきわめて豊かな盆踊りの成長が見られたことが挙げられます。
特に西部の日田や南部の佐伯地方には、江戸・上方からお座敷歌系の踊り・ウタが大量に流入・蓄積した経緯があり、独特の踊り分布が見られます。本家の江戸・京・大阪でもすでに途絶えた当時の流行曲が残っている可能性が高いといえます。
第三に、近代以降も新作踊りがきわめて盛んに作られています。大正時代には、「別府音頭」のようにいまも県民に広く親しまれる新民謡も生まれています。
こうしたことから、大分県は中世後期より現代に至るまで、通時的に盆踊りが盛んであった県ということができるでしょう。
2.盆踊り分布の特徴
足を運んでみるとよくわかるのですが、大分県は地理風土的にかなり多彩な土地柄です。海岸部-平野部-山間部、都市部-農村部といった地域区分をしただけでも、さまざまな踊り分布の分析が可能になると思われます。
◆4地域区分による分布の特徴
ここでは、県下の地域区分としてよく使われる「北部・中部・南部・西部」の4区分によって、地域的な盆踊り分布の特徴を整理してみましょう。
大分県概念図(平成合併前) 「大分県市町村合併ホームページ」より引用
北部
旧豊前地域にあたり、北九州方面との文化的交流が見られる。
国東半島北部にあたる豊後高田市に盆踊りの中心の一つがあり、「草地踊り」という地域踊りセット(複数の踊りの地域的なセット名称)を有する。
山間部では、中津市の上流域耶馬溪(やばけい)地方も盆踊り伝承の濃いところである。
国東半島の突端には姫島盆踊りで知られる姫島があり、1島だけで特異な盆踊り文化伝承地となっている。
中部
①国東半島の付け根にあたる山間の山香地方は、古くから盆踊りが盛んな土地柄として有名。「山家踊り」という重要な地域踊りセットが見られる。早間の踊りとして知られる。
②山香地方以外で盆踊りの中心を形成しているのは、杵築、別府、大分など開けた海岸部の都市である。
杵築は杵築藩の近世城下町で、旧杵築市域の中でも独特の踊りを有する。
別府市は、なんといっても別府温泉の温泉繁華街文化が近代以降の県下の盆踊り文化発展の一大拠点となったことが特筆される。現在も踊り開催日程を持つ。歴史的にも、別府温泉は一遍・真教ゆかりの時衆文化の故地。
大分市は、鶴崎などの中世城下町。大友義鎮(宗麟)の有名な風流踊り招聘の記録があり、史料上は最も古い盆踊り記録を確認することができる。大正以降「鶴崎踊り」という地域踊りセット名(猿丸太夫+左ヱ門)が有名となり、大分県を代表する盆踊りとして知られる。踊り開催日程を持つ。
西部
もっぱら山間部となる西部は九州の背中にあたる地域である。
江戸幕府の九州支配の要となる代官の置かれた「日田」盆地には、江戸・上方文化の直接流入が見られ、特異な盆踊り圏を形成している。
由布院盆地や英彦山(ひこさん)に近い山国谷などは、特に踊りが数多く集中している。
新・由布市には、 鮎川・津々良の地名に由来する地域踊りセット「津鮎踊り」がある。
南部
風流踊りが分布することでも知られる古い踊りの土地柄であり、南は日向(宮崎県)、東は海を隔てて伊予(愛媛県)と接し、北・中・西部とはまた異なる独特の踊り文化圏を構成している。
佐伯は、特に踊りの数が極端に多い。これは近世に多くのお座敷歌が移入されたためであるが、集落の独立性が高く、隣接地域との交渉が少なかったためか、あらゆる種類の踊りが残存した。
これらの踊りをひっくるめて「堅田踊り」の地域踊りセット名称が存在している。
こうした一般的な地区分類による区分以外に、みんみんさんからは試案ながら「博多踊りや思案橋を踊る地域」「国東半島、別府、新宇佐市」「新大分市、新臼杵市」「豊後大野市、南海部郡」「旧佐伯市」「由布市」「新竹田市」「九重玖珠」といった区分案も提案されています。
(参考資料)
「民謡歴史散歩」(池田弥三郎他編、河出書房新社、1962)
「豊後風流の研究」
「大分県の盆行事と盆踊り」(脇谷末雄・草地踊り保存会、1975)