有東木盆踊り、および兄弟関係にある平野盆踊りには、中世安倍金山などのユニークな歴史的バックグラウンドがあります。文献史料も多彩で、多くの優れた先行研究も参照可能です。

これらを導きの糸に、全国の盆踊りとも比較しながら、有東木盆踊りの歴史にアプローチしてみましょう。

中世安倍金山と風流芸能の伝播

有東木をはじめとする安倍川流域の盆踊りの起源を考える上で重要な意味を持つのが、「安倍金山」(「梅ヶ島金山」ともいう)と呼ばれる、安倍川源流地帯の巨大中世金山の存在です。

16世紀(1500年代)に入るころ、駿河(静岡)・甲斐(山梨)の両国の山奥で、突如として金山の大規模開発が始まりました。その後の佐渡・伊豆など世界的に有名な近世諸金山の先駆的存在となったのが、この甲駿2国の金山です。

まさに同じころ、京都・奈良など畿内近辺では「風流踊り」(盆踊りの原型)の爆発的な流行が見られます。やがて安倍奥の諸金山が富を蓄積し、鉱山都市が成長したころに、畿内に始まる風流芸能が流入したのではないか-というのが安倍奥の風流系盆踊りの起源に関する重要な論点になります。この点は、すでに「平野・有東木の盆踊り」においても、

「…この華麗な盆踊りが、なぜ安倍川本流の上流域と井川方面に伝わったか、ということである。それはすでに平野の項でも示唆されていたが、この地域に広く分布した金山との結びつきを考えるべきであろう。旧大河内村にはほとんどに金採掘の跡や伝承があり、梅ヶ島や井川は近世前半までかなり大規模な採掘が行われていた」

「この金山を媒介にしての伝播という推論が正しければ、金山がある程度盛況であった時代という条件に合わせて、梅ヶ島・井川地区への伝播時期を江戸時代中期以前におくということも可能になろう」

(「平野・有東木の盆踊り」静岡県教育委員会)

と指摘されています。

梅ヶ島金山

「梅ヶ島金山」は、戦国時代から江戸時代にかけて大量の金を産出し、全国有数の金山として知られています。当初駿河今川氏の財源でしたが、のちに武田氏、徳川氏と次々と有力戦国大名の所有に帰します。特に家康在駿時代には、慶長小判鋳造の原料供給地となりました。他にも梅ヶ島金山と同じ鉱脈を持つ甲斐側の早川金山、富士西麓下部町の湯之奥金山、安倍川と一山隔てた大井川上流の井川金山など、一帯の金山はいずれも戦国時代に最盛期を迎えています。

鉱山都市の出現

「富の集積地」である金銀山の周辺地域には、もっぱら山奥の僻遠の地であることが多いにもかかわらず「鉱山都市」が出現しました。そこへは、鉱夫や鉱業関係者はもちろんのこと、富を求めて商人・遊女・芸能者などが全国から集ったのです。山奥に「○○千軒」という地名が残り、過去の繁栄の伝説を伝えるところがありますが、近年こうした場所から実際に中世の金山遺跡が発掘されるケースが現れています。

鉱山都市は、同時代の全国一般の地域とくらべて、極端に賑わいがあり、近代以前の日本の歴史の中ではかなり特異な場所でした。中世の都市にはまた、本サイトでも注目して追いかけている時宗関係者がしばしば存在したことも見逃せません。

安倍川の流れ<04.08.15>

鉱山と風流芸能・盆踊り

鉱山都市はまた、歌舞・芸能が盛んに興行される「文化の集積地」でもありました。風流系芸能の興行はかなり”金がかかる”もので、その伝播は中世から近世にかけてのマチやムラの経済的成長を示すものと考えられています。

実際、盆踊り・風流芸能などの芸能は、金銀鉱山と深い関係があるケースがいくつもみられます。最も有名な事例として、慶長年間の佐渡金山における出雲阿国の念仏踊り興行の記録を挙げることができますが、秋田県毛馬内盆踊りと白根金山なども有名な事例です。安倍奥の盆踊り等の風流系芸能も、こうした金山の富がもたらした文化的遺産という側面を考える必要があります。
起源伝承 -有東木の金山伝承と望月家
安倍金山は、有東木よりもさらに上流の梅ヶ島にあるのですが、有東木の里自体にも金山との関係を示す手がかりが残されています。起源伝承を軸にアプローチしてみましょう。

有東木の金山伝承

第一は、有東木に残る金山伝承です。有東木には小字名として「金山」「日影堀」のような、全国の金山地域に共通する金山地名が残されています。また一般に鉱業神を祀る「金山神社」の存在も見過ごせません。昭和になって金山の試掘がされたとも伝えられており、ある程度の金鉱脈が存在していたことは事実のようです。

有東木の開発先祖望月家

第二は、有東木の草分けの家である「望月家」についての仮説です。「望月家」(屋号はニシ)は代々有東木の鎮守白髭神社の「カギ取り」(管理責任者)の家で、同家の庭は古くから盆踊りの踊り場とされており(現在は踊り場は寺の境内のみ)、有東木の地の歴史とともにある古い由緒ある家であることは間違いありません。

この望月家に関する伝承を子孫が書き留めたのが「芝切望月六郎左エ門家先祖伝説誌」(大正時代)です。

「芝切(創始)望月六郎左エ門=大阪ノ役、紀元二千二百七十五年即チ慶長年間、肥後熊本ノ家臣、真田幸村ノ家来某落人トナリ現住地へ来リ、現住地内ニ大樹ノうろアリ当時住家トナシ漸次十七戸トナシニ故ニ字ヲうとろ木ト名ヅケ…」

ここでは望月家は元武田二十四将の真田家の家臣で、大阪夏の陣後に「うとろ木(有東木)」の地に入り、開発先祖(芝切)になったとされています。年代的な矛盾や不詳な点もありますが、いずれにしても望月家は中世末期に有東木に入り、何らかの理由で起源伝承を「大阪夏の陣」に仮託する必要があったのではないかと解釈されています。そして、すでに「平野・有東木の盆踊り」(昭和56年刊)では望月家の有東木入りについても何らかの金山関係の理由があったのではないかという仮説を示しています。

甲斐の金山衆・望月家

ところが、平成に入って中世金山史研究が大きく進み、その成果の中から望月家の来歴を考える新たな手がかりが出てきました。戦国時代、甲斐・駿河の金山地帯には「金山衆(かなやましゅう)」という武装技術者集団が数多く登場し、中世金山史の興味深い研究対象となっています。そして梅ヶ島金山の甲州側鉱脈にあたる早川金山には、有力金山衆「望月家」があったことが確認されています。

甲斐の金山衆は当初武田家の影響下にありましたが、武田滅亡後は帰農したり、技術を活かして鉱業・土木の専門家になるなどそれぞれの道を選び、金山衆と呼ばれた中世的集団は解体していきます。現在も山梨県塩山市には田辺家をはじめ多くの金山衆の末裔が住んでいることで知られています。

そして、早川金山衆の望月家が根拠地早川から各地域へ分散していったプロセスが、「戦国金山伝説を掘る」(今村啓爾著・平凡社選書、1997)などの研究で明らかにされています。

湯之奥金山資料館での砂金採り
(山梨県下部町・02.5)

有東木望月家の起源伝承の伝える大阪夏の陣の時代は、武田家滅亡~徳川幕藩体制確立にいたる混乱期であり、ちょうど早川金山衆の望月家が各地へ分散していった時期と一致します。また、先に見たように有東木の地にも中世由来と思われる古い金山地名・伝承が残されていることなども考えあわせると、有東木の開発先祖望月家は、かつて梅ヶ島の甲州サイドにあたる早川を拠点とした金山衆望月家の関係者であった可能性が出てきます。

仮説の検証にはさらにたくさんのデータを集めることが必要ですが、中世金山史のホットな分野から、有東木・平野の盆踊りの歴史を考える史料がまだまだ出てくるかもしれません。
(参考資料)

「平野・有東木の盆踊り」(静岡市平野盆踊り保存会・有東木盆踊り保存会、昭和56年)
「有東木の盆踊り」(静岡市教育委員会、1995)
「戦国金山伝説を掘る」(今村啓爾著・平凡社選書、1997)
「甲斐黄金村湯之奥金山資料館展示図録」(甲斐黄金村・湯之奥金山資料館、1997)
有東木盆踊り(静岡県静岡市)

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