六斎念仏のふるさと-上中町

北の越前 南の若狭

福井県、といっても他地域の方にはすぐにはイメージしにくいかもしれませんが、真ん中の敦賀を境にして、北は越前、南は若狭といえば、少し親しみやすくなるのではないでしょうか。上中町三宅地区は、この県南部・若狭地方にあります。

福井県北部は、江戸時代には福井藩で、かの蓮如以来現在に至るまで根強い浄土真宗地帯として知られます。
一方南の若狭は小浜藩領で、古代より畿内中央部との交流が深い土地柄。

こうした越前と若狭の歴史・風土の違いは、県下の民俗芸能の分布にも影響しているようです。

「福井県の民俗芸能」(福井県教育委員会)によると、県南部の若狭が「民俗の宝庫」ともいうべき多彩な民俗芸能を伝承するのに対し、北部の越前は相対的に民俗伝承が薄いという相違が見られると指摘しています。
※平成17年、旧上中町は隣の旧三方町と合併し「若狭町」が誕生。原発自治体の多い地域にあって、原発を持たない町同士の合併として注目されました。本サイトでは、合併前の歴史的地域・地名を意識して、旧町名の上中町を使いました。

上中町の風土

小盆地の多い若狭。上中町もまた、周囲を山々に囲まれた盆地です。 「水と緑のまち」の名のとおり、平野部には周囲の山々から清流が水路となって流れ込み、美しい水田地帯が広がります。

美しい水田が広がる上中町
(安賀里地区)

北の敦賀から南の小浜へ、田園の中を縫うようにJR小浜線が走ります。

一方、町を東西に横切るのが若狭街道、通称「鯖街道」です。

小浜線と若狭街道が交わる上中町中心部に、今回の訪問地区「三宅地区」、および同じく六斎念仏の伝承で知られる「瓜生地区」があります。

若狭街道

歴史的幹線道路「若狭街道」

上中町の歴史・風土そして六斎念仏の背景を考える上できわめて重要な意味をもつのが、町中央を横断する「若狭街道」です。

日本海海運の一大拠点であり、大陸との国際貿易港でもあった敦賀や小浜は、京都にとってまさに最重要港湾でした。近代でいえば横浜といったところでしょうか。若狭街道はこの両者を結ぶ、いわば”首都高速”にあたるといえます。

こうした京都との結びつきの強さが、若狭の歴史や民俗芸能に大きく影響しました。上中町には歴史的建造物群で知られる「熊川宿」などの遺産があり、いまも当時の街道のおもかげを随所に残しています。

鯖街道と「鯖寿司」

若狭街道はまた、都人の生活を支える物流ルートでもありました。日本海に産する大量の海産物(動物性たんぱく質)が、このルートを通って京都に運び込まれました。その代表的な魚が「鯖」であったこと、葵祭りで若狭の鯖寿司が珍重されたこと等の理由から、若狭街道は「鯖街道」の通称で呼ばれるようになったと考えられています。

コラム お盆と「鯖」

日本海を代表する魚である鯖は、お盆と縁の深い魚です。お盆に刺し鯖などさまざまな形で鯖を食べるのは、わが国に広く見られる習俗です(お盆入門 参照)。越前・越中の鯖はとくに有名で、盆踊り歌にもしばしば登場します。

「越前歩荷(えちぜんぼっか)の荷なら そこに降ろすなサバくさい」

(岐阜県・郡上踊り「三百」の歌詞より)

けわしい峠道を越えて人力で物資を運搬するのが「歩荷」。越前・越中の鯖は、盆の魚として、また貴重なたん白源として、美濃・信濃などの山国へ大量に”歩荷”されていました。
盆踊り歌には、鯖商人も登場します。

「能登のサバ売りゃいつ京へ上る あさっちゃ祗園のあとやさき」

(長野県・新野盆踊り「能登」の歌詞より)

京都・能登(信濃も?)を股にかけて羽振りのよい鯖商人、といったところでしょうか。

こうした若狭街道と福井県の風土を象徴する食べ物が、有名な「鯖寿司」です。

地元藤沢で鯖寿司のかわりに見つけた鯖の缶詰。ブランドはもちろん「若狭小浜」

かつて京都から若狭小浜へ旅行した際、比叡山山中の茶店で鯖寿司を初めて食べ、そのおいしさに脱帽した記憶があります。若狭街道は比叡山を抜けて京都に入っているわけですから、今にして思えば、これこそが”鯖街道の鯖寿司”だったわけです。

日本有数の米どころ・福井県の美味しい米と、脂の乗った若狭のサバが伝統の発酵・保存技術で結ばれると、あの感動的においしい鯖寿司ができるわけです。寿司以外にも、発酵食品の「へしこ」「なれずし」や「浜焼さば」など、鯖はこの地方でさまざまに加工されて利用されてきました。

鯖寿司は、まさに福井・若狭の歴史と風土の豊かさを象徴する食べ物といえるでしょう。
《スナップショット・上中町》

夏雲広がる畦道
(安賀里地区)

養老二年創建の古社・
西(さい)の神恵比寿神社
(安賀里地区)

さあ出番だ!
(三宅地区)

三宅地区の鎮守・信主神社

夏も冷たい祓川の水流は、やがて盆地の水田を潤していく

歴史のある三宅地区には旧家や古建築も少なくない

福井県の民俗芸能

福井の民俗芸能

ここで、福井県におけるおもな民俗芸能を見てみましょう。

県下には中世の古式を残す民俗芸能としては、①新年の寺院の修正会に由来するとみられる「オコナイ」「田遊び」のグループ、②中央大社寺の舞楽法要の流れを伝える「仏舞」「王の舞」のグループなどがあります。前者は県北部(嶺北)に多く分布し、後者は敦賀以南に集中しているようです。
これらに対し、第三のグループを形成しているのが、③「六斎念仏」「壬生狂言」などの念仏芸能です。

風流芸能の希薄さ

普通、盆踊り・風流踊り・念仏風流などは「風流芸能」としてまとめて解説されるところです。実際、隣接する丹後、近江、美濃などは、きわめて濃厚な風流踊りの分布を見せることで知られています。

これにに対し、福井県では風流踊りの伝承が極端に希薄で、「その少なさが当地方の分布上の特色となっている」(「福井県の民俗芸能」)という、注目すべき指摘がなされています。越前については、濃密な真宗地帯であることの影響も考えられますが、「民俗の宝庫」ともいわれる若狭については、こうした風流の希薄さは一つの謎といえます。

若狭に大きな影響を与えたのは京都です。
京都は、中世末~近世初頭にわが国の風流踊りの中心地・発信地でした。しかしながら、その後江戸時代を通じて盆の芸能は六斎念仏や近世風盆踊りに代替されてしまい、あれほど盛んであった近世風流踊りは、その名残りが周縁村落にわずかに伝承されている程度です。

若狭においても、やはり盆の芸能が六斎念仏と近世風盆踊りであるところを見ると、京都との交流を通じて同様の変化があったと考えられるのではないでしょうか。

六斎念仏と盆踊りの分布

それでは、今回の取材対象である六斎念仏の分布を調べてみましょう。

(出典:「福井県の民俗芸能」福井県教育委員会、平成15年)
別項で紹介するように、六斎念仏には念仏そのものを主体とするものと、太鼓と踊りが加わったいわゆる「芸能的六斎」があります。上の図はその両方を含んだものです。

六斎念仏は若狭のみ

図からもわかるように、六斎念仏は県南部の「若狭」中心に分布しており、北部の越前にはまったく見られません。北限は、三方郡美浜町麻生の六斎念仏です。

こうした六斎念仏の伝播については、これまで見てきたように「若狭街道」を通じた京都からの伝来が主力ルートと考えられます。「同系の伝承が滋賀県朽木村の古屋や生杉という京都に通じる道筋に点在しているのはその一証といえよう」(「福井県の民俗芸能」)。しかし、大きく芸能化が進んだ京都の六斎念仏に対し、福井県の六斎念仏は太鼓踊りを伴うものであっても素朴さを残しており、いわば発展途上の「未然形の芸能的六斎を伝えるところに大きな芸能史的意義が認められる」(前傾報告書)としています。

盆踊りの分布との関係

ところで、盆踊りファンにとって興味深いのは、やはり盆踊りと六斎念仏の関係です。歴史的な推移については「歴史」のほうで詳しく扱うとして、現在の民俗芸能の分布として両者はどんな状況になるのでしょうか?
若狭において、盆の主たる行事が「六斎念仏」であることはいうを待ちませんが、盆踊りはまったくなかったのでしょうか?
前傾報告書所載の「悉皆調査」のデータをもとに、県下の盆踊りをピックアップしてみたのが以下の図です。

これによると、伝承系盆踊りについては、福井全県によく分布していることがわかります。
ここからいくつかの興味深い視点が得られます。

・六斎念仏の分布は若狭のみなのに、伝承系盆踊りは全県分布している。同じ念仏芸能であるはずなのに、この相違はなぜか。
・とくにきびしい真宗地帯であるはずの越前で伝承系盆踊りが見られるのはなぜか。盆踊りは庶民の娯楽として許容されていたのか。あるいは、宗教規範のゆるんだ近代以降に流入したものか?
・若狭は、六斎念仏を中心としつつも、盆踊りも共存している。ただし六斎念仏がある集落では、盆踊りは見られないようだ。両者の受容プロセスは、どのようなものであったのか。

以下別項で、こうした問題についても考えていきたいと思います。
(参考資料)

「福井県の民俗芸能」福井県教育委員会、平成15年
「毛馬内の盆踊り」柳沢兌衛、平成11年※
「京都の火の民俗」」八木透編、学芸出版社、平成 年