世富慶の歴史

世富慶(よふけ)は、沖縄県北部・名護市の東郊外に位置する静かな集落です。

美しいビーチで有名な名護湾に面し、南側には世富慶川が流れます。背後には国頭(くにがみ)山地のいわゆる「山原」(ヤンバル)が迫り、小さい路地や坂道の多い地形が印象的です。
また、路地の交わる辻には、「拝ん所」(うがんじょ)などの信仰施設が随所に見られ、沖縄の伝統的な集落の姿をよくとどめています。

世富慶のまちの起源について、「名護六百年史」では、嘉靖9年(1530)頃、名護城から来た4戸の草分けの家が住み着いたという中世起源説を紹介しています。

名護市史によると、17世紀ころの世富慶は、「絵図郷村帳」などの資料にすでに「よふけ村」として紹介されており、近世初期にはすでに本格的な村落が形成されていた様子がうかがわれます。世富慶におけるエイサー等の芸能の上限可能性は、このあたりということになりそうです。

世富慶の路地とヤンバル

世富慶の人口は、明治36年の記録ではすでに500人前後で、戦後もほぼ同水準で推移しますが、昭和40年代~50年代にかけて600人前後まで増加し、世帯数も増えています。
伝統型盆踊りを伝承する内地の集落の多くが、少子高齢化や青年数の減少によって行事の継承困難に陥っていますが、世富慶ではいまだに青年会中心の昔ながらの盆踊りの姿をよく残しています。

世富慶エイサーの歴史

世富慶エイサーは、沖縄のエイサーの中でも古い歴史を持つ伝統型エイサーとして有名です。

「エイサー」(沖縄県文化振興課)によると、世富慶にエイサーが伝えられてから100年以上と言われ、国頭地方一帯に世富慶型のエイサー(手踊り・円陣の伝統的スタイルのエイサー)が伝えられたとしています(出典は記載なし)。

「伝統型エイサー」の中でも、世富慶エイサーが多彩で成熟した芸態を備えており、また旧来の念仏系の歌詞の割合が少なくなっていることを考えると、世富慶エイサーの芸態の基本形が固まったのは、近世後期以降であるという大まかな推測がまずできそうです。

もちろん、念仏ベースのさらに古いタイプのエイサーが、すでにこの地域で行われていた可能性は十分考えられます。

次に、世富慶エイサーの伝来経路に関するいくつかの説を見てみましょう。

伝来経路の説

名護市の西側にある本部町はやはり伝統型エイサーの姿をよく伝える土地ですが、同町字瀬底の「瀬底誌」では、世富慶エイサーは瀬底からの伝来としています。
ちなみに世富慶に近い名護市城(ぐすく)地域も手踊り・円陣・道ジュネーのエイサーを伝承する地域ですが、戦後に瀬底から習ったものといわれているようです(「エイサー360度」)。

宜保栄治郎氏の「エイサー」(那覇出版社)は、盆踊り歌の歌詞の分析を通じて、世富慶エイサーの伝来プロセスを探っていますが、やはり瀬底エイサーとの関係に触れています。

同書は、国頭(くにがみ:沖縄本島北部)地方には「エイサーは瀬底から伝わった」という伝承があることを紹介し、古い形を伝える世富慶エイサーも喜如嘉(きじょか:国頭地方の集落)のエイサーも歌詞がほとんど同じであること、いずれも「モー遊び歌(もーあしびうた:青年男女の恋愛歌)」が中心であることなどを指摘しています。

氏は、この「モー遊び歌」を伝えたグループが「シークビヨウ」(瀬底日雇)という瀬底の季節労働者であった可能性を示唆しています。3・4月の田植えや、6・7月の稲刈りの時期に出稼ぎに出た瀬底地域の日雇が土地の若者に芸能を伝えたという伝承が、名護市周辺の村に残されているということです。

多彩な芸態の世富慶エイサー

また瀬底と同じく畑作地帯の読谷(よみたん)村のヒヨーサー(日雇さ)が、大正期に宜野湾や中城の村に村遊びを広めたという伝承も紹介されています。「日雇」がエイサーの歴史にどう関わってきたのか、畑作地帯と沖縄の盆行事・盆踊り文化にどのような関係があるのかなど、大変興味深い問題です。

エイサーの歌詞の分析から、氏は

「おそらく大正初期まで名護、喜如嘉辺りのエイサーも『仲順流れ』(ちゅんじゅんながり:古い念仏系エイサー歌詞の典型)だけであったが、変化に富んだ楽しい「毛遊び型」の瀬底エイサーに変わったものと思われる」(「エイサー」)

という仮説を提示しています。

戦前の伝統的なエイサーの姿をよく伝える世富慶エイサーが、沖縄のエイサーの歴史を考える上で重要な位置を占めていることは間違いなく、その歴史的プロセスについてはいっそうの検証が必要でしょう。

起源伝承

世富慶には、「エイサーの始まり」に関する貴重な伝承が伝わっています。

名護市史では、区長の談話として次の伝承を紹介しています。

昔、世富慶のヤマタヤーの先祖が若い頃、船に乗って那覇に薪を売りにいく途中、残波岬の沖で遭難した。乗組員のほとんどが助からなかったが、その若者だけは読谷の長浜の浜に打ち上げられ、通りかかった若い夫婦に助けられた。

その若者は、若夫婦の手厚い看病で元気を取り戻し、お礼にその家で一年間働くことにした。

その間、長浜の村では毎晩、若い男女が広場に集まり、楽しそうに歌ったり踊ったりしているのを見て、世富慶の若者もいっしょになって、歌や踊りを覚えた。とても楽しかったので、ぜひ自分の村の人たちにも教えてやりたいと思った。

一年後、村に帰った若者は、さっそく青年たちにその歌や踊りを教えた。ちょうどそこへ、村々を回り踊りを教えている人がきて、青年たちが踊っているのを見て、「これではいかん」といって、ちゃんとした踊りを教えて、今の世富慶のエイサーが始まったという。

 

この話では、世富慶の人が読谷へ働きに行っていることになっており、読谷からの出稼ぎという説とは伝承経路が異なりますが、いずれにしても世富慶エイサーが、同じ北部の瀬底地域以外にも中部の読谷地域とのなんらかの関係があったことを示唆する伝承となっています。

また、後半に出てくる芸能指導者も注目されます。
この指導者が、各地のエイサーに見られる漂泊芸能者「チョンダラー」のようなものか、あるいはヒヨーサーのような人々かはっきりしませんが、世富慶のエイサーの主要な芸態がある時期に芸能伝承者の手で整った様子を伝えているのではないかと思われます。