起源伝承
室町時代の文安2年(1445)、伊勢平氏の一族である関氏が新野の地の領主となりました。

新野・瑞光院

享禄2年(1529)、新野に瑞光院が建立された際、開山祝いとして三河(三州=現在の愛知県)振草下田地域の人たちが来て、寺の広庭で踊りました。これを見た村人たちが「毎年盆祭りにここで踊ることにしよう」ということで、盆踊りが始まったと古い記録に記されています。

三州振草下田の地名は、新野盆踊りの現行踊り曲の1つである「おさま」の歌詞の中にも

「おさま甚句はどこからはよた(流行た) 三州振草おさま下田から」

と歌われています。このことも、新野の盆踊り文化の少なくとも一部が愛知県・振草地方から伝来したことを示していると考えられます。

※参照「古戸盆踊り」:三州振草の伝承系盆踊りのひとつで、いまも「おさま甚句」が唄われています。

注目される「市神様」とは?

盆踊り最終日、市神様前での「市神供養」の儀礼

関氏は、この踊りを現在の殿屋敷の門前で踊るように命じました。ここを現在は「古市場」と呼んでいて、たまたま市場の守り神の市神様が祀られており、それがいつとはなしに踊りの神様とされました。
さらに大村地区でも、永正庵という寺があって、その門前でも踊ってもらうこととし、ここを「大村市場」といって、やはり市神様を祀ってあります。

これらの記録や伝承は様々な角度から検証が必要ですが、注目されるのは、
(1)最初の踊り場が「寺の広場」や「門前」であったこと、また
(2)踊り場が「市場」のような都市的な場所と深い関係にあったこと
です。中世には、寺院は多くの場合”都市的な性格”を持つ場所であり、新野のケースも盆踊りの発生期における宗教と都市性の関係を考える上で興味深い事例です。

また、一般に盆踊りにともなう「送り」の行事では、送られる対象として新精霊や共同体祖霊などがあると指摘されています。新野の場合、新精霊は盆踊りの場に登場する「切子灯籠」に宿り送られると解釈するのが自然と思われます。

新野では”共同体祖霊”といったものの存在は意識されているのかどうか、また特に新野に特徴的な「市神様」「踊り神」はこれらの”精霊”や”祖霊”とはどのような関係にある神格なのか、などの点についても興味のあるとことです。

昔の新野盆踊りは「巡回形式」
「祭りのふるさと あなん」(阿南町教育委員会)によると、新野盆踊りが現在のような輪踊り形式になる以前は、新盆の家の庭先で親類縁者や村人が集まって精霊を慰めるための踊りをして回ったといわれています。
これは、同じ長野県阿南町の和合念仏踊りや天龍村の坂部(さかんべ)、愛知県北設楽郡田峯(だみね)地区の念仏踊りなどに残されている「巡回形式」と共通の形式であり、精霊(新盆)供養の色合いの強い段階に共通する盆踊りの儀礼形式であったと考えられます。

踊り曲数の増減
また新野の踊り曲の伝承数は、むかしは現行の7曲よりもはるかに多く、各時代の流行歌を取り入れさまざまな踊り曲が踊られていたようです。しかし、大正時代に「新野にとって本質的な踊りだけを残すべきである」という民俗学者・柳田国男の指導を受け、公式の伝承曲は現行の7種類に絞られました。以後、現在に至るまでこの7曲が伝承されており、国の無形民俗文化財指定もこの7曲が受けています。
他の多くの伝承系盆踊りの伝承地域でも、非常に多数の踊り曲の伝承記録があって驚かされることがあります。かつては、無数の踊り曲が雑然と流入し踊られていたものが、近代以降さまざまな理由で整理されたり、継承者が減って自然と踊られなくなったりして、伝承盆踊りの踊り曲伝承数は一般に時代を追って減少していく傾向が見られるようです。


<参考文献>
「祭りのふるさと あなん」(阿南町教育委員会)