現在伝承されている踊りや唄から考えて、西馬音内盆踊りが現在のような形に本格的に形成されたのは近世・江戸時代になってからと考えられます。しかしながら、周辺の時衆遺跡等の存在を考えると、室町時代後期から戦国時代ころには、すでに盆踊りの母体となる民俗行事が形成されていた可能性があります。歴史を確実に証明する文献史料は今のところ見つかっておらず、伝承やさまざまな史料から考えていく必要があります。

起源伝承

小野寺氏鎮魂の踊り

西馬音内盆踊りには、いくつかの起源伝承があります。
特に有名なのは、
「慶長5年(1600)この地方の領主であった小野寺氏が最上義光に滅ぼされたあと、その小野寺氏の子孫が先祖の霊を慰めるために踊った亡者踊りが始まり」(辞典) 「慶長6年(1601)西馬音内城主小野寺茂道一族が滅び、土着した遺臣たちが主君をしのび旧盆の16~20日までの5日間、宝泉寺(西馬音内寺町)境内で亡者踊りを踊った」
というもので、小野寺氏の遺臣が主君を偲んで踊った盆供養の踊りをベースとし、これに豊年踊りと合流して現在の盆踊りになったとする説が有力です。同様の起源伝承は全国にありますが、実際に戦国時代は恨みを飲んで死んだ人々を慰める御霊信仰や念仏踊が普及した時代でもあり、架空の話として扱うことはできません。

また史実では、仙北(秋田県北部)小野寺氏は戦国時代末期に最上氏に滅ぼされた後、石州(島根県)津和野に配流されています。津和野にも、覆面をすっぽりと被る優雅な盆踊り(念仏踊り)が残っており、両者の関係について想像力が刺激されます。

源親上人の伝承

このほか、西馬音内盆踊りの起源伝承としては、「鎌倉時代の正応年間(1288~93)に、源親上人という僧が蔵王権現(今の西馬音内御獄神社)を勧請し、この境内で豊年祈願として踊らせた豊年踊に始まるもの」「西馬音内城内で自刃した矢島城主大井五郎を悼んで踊られた願生化生(がんしょうけしょう)の踊り」といったものがあります。後者は、やはり戦国時代に由来する鎮魂伝承の一種と考えられます。

注目される時衆遺跡

西馬音内盆踊りの前史や起源を考える史料として重要なのが、中世時衆信仰の存在です。

たとえば「時衆板碑」の存在は、中世鎌倉時代末期の羽後町や西馬音内周辺に時衆信仰集団が存在していたことを示しています。さらに「善光寺式三尊像」は、時衆に先行する念仏信仰者である善光寺聖の存在を示唆するもので、この地域で中世初期にはすでに念仏信仰が浸透していたことを物語っています。中世に時衆が存在した場所は、都市的な性格の場所であることが多いため、当時の西馬音内周辺が比較的早い時期から都市的な性格を持っていたと推測されます。

西馬音内の支配者小野寺氏と時衆の関係も注目されます。秋田県の小野寺氏のもともとの本拠地は下野国(栃木県)小野寺ですが、ここは時衆の開祖一遍上人が回国途上に立ち寄るなど時衆信仰が盛んなところで、のちに小野寺氏自身も時衆寺院を運営しているほどです。また西馬音内小野寺氏の本家にあたる稲庭小野寺氏は熊野本坊に結縁しており、やはり時衆と関係の深い熊野信仰との結びつきを示しています。

全国の念仏踊りや盆踊りの起源伝承の多くは怨霊の鎮魂に関わるもので、その多くは時衆や念仏聖が創作・普及に尽力したものと考えられています。西馬音内の小野寺氏起源伝承も、時衆や念仏聖がかかわっていた可能性があり、単なる伝承として片づけられないだけの重みがあります。

西馬音内の時衆信仰遺跡

「葬儀の夜の念仏」 時宗念仏が現在まで伝えられたと考えられる民俗儀礼。
「本尊阿弥陀如来脇侍」 「善光寺式三尊像」といわれ、時衆と密接な関係にあった善光寺聖(ぜんこうじひじり)という念仏信仰がこの地に伝えられたことを示す。
「名号碑断片」 堀回御嶽山麓出土、元徳2(1330)年の銘。これは時衆信仰が盛んだった時期にあたり、時衆板碑(時衆信仰者が各地に建立した信仰の石碑)と考えられている。
「光明真言碑」 西馬音内御嶽神社境内。光明真言は、中世に死者鎮魂の呪文として広く用いられた。死者供養は、時衆の仕事であり、これも時衆板碑の一つと考えられている。

修験道の遺跡

なお、西馬音内周辺には時衆遺跡以外に、いくつかの修験道の遺跡が残されています。修験道は、やはり中世から近世に各地の芸能形成に大きな役割を担ったことから、その歴史や盆踊りへの影響関係は、今後の研究課題です。
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