起源伝承

津和野踊りには、ドラマティックな起源伝承が伝えられています。時は戦国時代末期の天正元年、後の津和野領主亀井新十郎茲矩は、有名な山中鹿之助(毛利氏に滅ぼされた尼子氏の再興を図る武将)の仲間でした。鹿之助が毛利に敗れて殺された後は、中国攻めを進める信長の武将羽柴秀吉に味方し、因幡国鹿野城でがんばっていました。この鹿野城の近くには要害堅固の城「金剛城」があり、城主である兵頭源六は、鳥取城と連携しながら秀吉軍を挟み撃ちして苦しめていました。そこで秀吉は、茲矩に命じて金剛城を攻略させることにしたのです。

守りの堅い金剛城は、正面から攻めても兵力を損失するばかり。そこで茲矩は一計を案じることにしました。城主の兵頭源六は、歌や踊りがことのほか好きでした。これを知った茲矩は、郷土芸能に新しい踊りを取り入れ、笛や太鼓に乗せて鹿野城下の村々で盛んに踊らせたのです。この新しい踊りが評判になり、みんな喜んで踊ったため、踊りはたちまち近隣に広まっていきました。
そして・・・

「あたかも天正九年七月十四、盂蘭盆会の日である。鹿野の城下は常よりは美しく装をこらした踊の大会が催された。この踊子の一団の中に茲矩の一隊を変装させて加えていた。
踊狂う一団は、次第に近郊に歩を進め、やがて金剛城下に溢れ出した。この一団を見ようと城中の男女は歓声を挙げて集り、城主兵頭までが家臣とともに群衆に紛れて見物した。
踊りもたけなわになる頃、にわかに城に火が起り喊声があがった。源六は驚いて城を仰げば既に亀井勢の四ツ目紋の旗差物がひるがえり、覆面、振り袖姿の装いはとれて、踊子は戦士となり、城は完全に急襲によって奪取されたのである。城中の兵は、命からがら鳥取城を目指して逃亡した。
その後、この金剛城は一名「踊見の城」と呼ばれたが、今日では訛って「オドロメ」と云っている。」(「津和野の鷺舞と盆踊り」)

その後亀井茲矩は、毎年盂蘭盆会の吉例としてこの踊を城下に普及させました。江代時代になって元和三年、亀井家は津和野に移封となりましたが、その際この踊りも移し、毎年盆の七月十五日を中心に城下各所で踊らせ、士農工商の別なく大いに奨励したとのことです。

仮装した武士が踊りで敵の目をくらまし、戦に勝利するという伝承は日本各地に残されています。津和野の近く、広島県の「南条踊り」にも同様の起源伝承が伝えられています。物語りの史実性は別に検証する必要があるとして、その開始時期が戦国から江戸にかけての時代であること、人目をひく風流な踊りの流行があったこと、戦と関連しているため死者鎮魂儀礼との関係が想定できることなど、踊りの起源を考える上で無視できない要素を伝承の中から読みとることができます。

森鴎外のみた盆踊り

明治の大文豪森鴎外は津和野の出身です。
彼は、少年時代の津和野踊りの思い出を、有名な青春時代の自伝小説「ウィタ・セクスアリス」の中で紹介しています。ここで触れられているのは、明治のはじめ頃の様子ですが、まだ江戸時代のころの雰囲気を残した盆踊りであったと想像され、当時の津和野踊りの様子をうかがう貴重な史料の一つとなっています。

「その歳の秋であった。
僕の国は盆踊の盛な国であった。旧暦の盂蘭盆が近づいてくると、今年は踊が禁ぜられるそうだといふ噂があった。併し県庁で他所産の知事さんが、僕の国のものに逆ふのは好くないといふので、黙許するといふことになった。
内から二三丁ばかり先は町である。そこに屋台が掛かってうぃて、夕方になると、踊の囃子をするのが内へ聞こえる。
踊を見に往っても好いかと、お母様に聞くと、早く戻るのなら、往っても好いといふことであった。そこで草鞋を穿いて駆け出した。
これ迄も度々見に往ったことがある。
もっと小さい時にはお母様が連れて往って見せて下すった。踊るものは表向きは町のものばかりといふのであるが、皆頭巾で顔を隠して踊るのであるから、侍の子が沢山踊りに行く。中には男で女装したのもある。女で男装したのもある。頭巾を着ないものは百眼といふものを掛けてうぃる。西洋でするCarnevalは一月で、季節は違ふが、人間は自然に同じやうな事を工夫し出すものである。西洋にも収穫の時の踊りは別にあるが、その方には仮面を被ることはないやうである。

大勢が輪になって踊る。覆面をして踊りに来て、立って見てうぃるものもある。見てうぃて、気に入った踊手のうぃる処へ、いつでも割り込むことが出来るのである。・・・」

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