旧暦のお盆

 

旧暦」は自然の「月」のうごきと深く関わっており、このことが
お盆や盆踊りにさまざまな彩りをあたえていました。

また、現在では、7月盆でも8月盆でもお盆の季節はやっぱり「夏」ですが、
旧暦では、お盆の季節感覚はむしろ「秋」になります。

ここでは、明治時代以前の日本人がならだれもが体験していた
旧暦のお盆の特徴を見てみましょう。

 
お盆と月の「蜜月関係」

◆「旧暦」の正式名称は「太陰太陽暦」といいますが、この「太陰」とは、「月」のことをさす古い中国の言葉です。
ちなみに英語で太陰暦を lunar calendar といいますが、やはり月(ルナ)にちなんだ言葉です。
太陰暦は、その名の通り自然現象としての月にぴったりとリンクしています。「1月」「2月」は、じっさいに「今年最初の月(の満ち~欠け)」「2番目の月」・・・のことを指しています。

◆「月の暦」である旧暦はまた、人々の労働生活と強く密着したものでした。
漁業の盛んな沖縄本島南部の糸満は、いまも旧暦の文化を根強く残している地域ですが、これは、月の満ち欠けと密接な関係にある漁業と旧暦が切り離せないためです。
旧暦は農業生産に必要な暦でもあったのです。

◆さて、お盆と月の関係です。
旧暦のお盆の中心「7月15日」は、自然現象の月との関係でいけば必ず満月になるという、実にすてきなシチュエーションになっているのがポイントです。

お盆には祖先の霊が戻ってくるわけですが、多くの地方が8月盆を採用したのは、

「月の光を頼りに先祖霊がやってくるという考えから、梅雨空の新暦盆(7月盆:引用者注)をさけ、あえて月光の美しくなる月遅れの8月盆を選んだ」
(三隅治雄「日本の民謡と舞踊」大阪書籍)

ためだ、という説もあります。
月の光は、お盆の中でも大切な役割を果たしていたんですね。
ちなみに、民俗行事上の正月とされる小正月(旧暦1月15日)も、やはり満月でした。

お盆と盆踊り ◆旧盆の盆踊りは、満月の月明かりのもとで踊りました。
月明かりは踊るには十分明るく、しかもムードのあるやわらかい光はロマンチックな「演出効果」をもっていたのです。

日本の夜が今のように明るくなったのは、せいぜいここ50年です。盆踊りも、ほとんどは明るい照明のもとで踊るイベントになりましたが、もちろん心躍る楽しいものであることに変わりありません。

お盆の季節は「秋」
◆月の運行による「旧暦」は、実際の季節(太陽できまる)とズレることがありました。
これを補正するため、太陽の運行をもとに1年を24分割した「二十四節気」というシステムを併用していました(そういえば「二十四の季節を持つ国…」というクルマのCMがありましたっけ。あれです)。旧暦のことを「太陰太陽暦」というのは、「太陰暦をベースに太陽の運行による季節補正をした暦」であるからなのです。

お盆の時期である旧暦7月には、二十四節気の「立秋」が配当されています。つまりこの月が秋の始まりということです。むかしのお盆は、「夏の終わり&秋の始まり」という、季節の変わり目を印象づける行事でもあったのです。

お盆と盆踊り ◆盆踊り行事の中にも、「秋」をつよく意識させるものがあります。
長野県阿南町新野では、盆踊りの最終日8月16日の明け方に「踊り神送り」といわれる行事が行われます。新精霊を宿した切子灯籠の行列を町の外に送り出す行事ですが、この行列は「お盆そのもの」なので、これが通ったあとは「秋」になり、以後いっさい踊ることは許されません。

行列の通過を見ている人は、まさに目の前で夏から秋へとうつりかわる季節を目の当たりにするわけです。こんな行事を考え出したわたしたちのご先祖、けっこうセンスがありますよね。

「踊り神送り」の行列
(長野県新野)

◆同じ新野の「秋歌」という民謡も注目です。
町外れで切子灯籠を燃やした後、人々は後ろを振り向かず町へ戻り、お盆の行事は終わります。この時道々歌われるのが「秋歌」で、やはりお盆が終わったこと、秋になったことを訴えます。その歌詞は、まるで一幅の絵を見るような素敵なものです。

秋が来たそで 鹿さえ鳴くに
なぜか紅葉が色づかぬ
盆よ盆よと 楽しむうちに
いつか身にしむ 秋の風
稲は穂に出て ちょいと花かけて
さらり乱れて 秋の空
(新野盆踊り 秋唄)

かつては日本中で、春夏秋冬それぞれの「四季歌」が歌われていましたが、いまでもこの新野のように生活の中で季節感を伴って歌われている地域は少なく、貴重な例となっています。