かんこ踊りは、胸に「かんこ(羯鼓)」と呼ばれる締め太鼓を下げ、両手のバチで打ち鳴らしながら踊る民俗芸能で、かぶりものや背にかつぐものが大型で華やかな「風流芸能」である点も特徴です。
かんこ踊りは、北陸地方など全国に散在していますが、圧倒的に濃密な分布を見せているのが三重県です。
「猟師かんこ踊り」も、こうしたかんこ踊りの全体像の中に位置付けることから、理解の手がかりが得られると思われます。

かんこ踊りとは

三重県下の「かんこ踊り」といわれる芸能は、「かんこ」を一つの共通点として豊かな多様性と幅を持っています。その特徴を拾い上げてみると、次のようになります。

かんこ踊りの特徴
 1.楽器 かんこ」と呼ばれる締太鼓を胸に下げて、数名の踊り子が叩きながら踊るのが最大の特徴。他に笛、ほら貝、鉦、ささらなどを使う地方もある。
 2.いでたち 踊り子は被り物として、風流化した馬毛や花笠などの「しゃごま」を被る。背に「オチズイ」などと呼ばれる大きな背負物を背負う地域もある。装束は、手甲、脚半、腰蓑など古い旅装が多く見られる。
 3.行事の目的
・時期
現在のかんこ踊りは、お盆に精霊送りとして踊られる「念仏踊り系」と、4月・10月などに踊られる「雨乞踊り系」の2グループに分類される。
 4.場所 芸能を伝承するのは農山漁村。踊りの開催場所は寺院、神社などが多い。念仏踊り系のかんこ踊りでは、初盆の家などを巡って踊る形式を残すところがある。
 5.踊りの形態 「かんこ」の踊り子は輪になって踊り、「中踊り」などと呼ばれる。さらにこれを一般の人が取り巻いて輪踊りを踊るなど、中世末期の「風流踊り」と共通の形式が見られる。かがり火を巡って踊る地方もある。
 6.うた 畿内の太鼓踊りと同様、近世初頭ないしそれ以前の古い形式の小歌や、和讃などを良く残す。
 7.名称 「大念仏かんこ踊り」「こおどり」「おかぐら踊り」「雨乞踊り」「祇園踊り」「神事踊り」など、土地によりさまざまに称される。
 8.盆踊りとの関係 念仏踊り系のかんこ踊りでは、行事全体を「盆踊り」と考えている地域がある。一方、初盆の家の前で踊るのを「精霊踊り」、一般の家の前で踊るのを「盆踊り」と区別する地域(松ヶ崎町)もある。

芸態面から見て、かんこ踊りは民俗芸能の分類としては「太鼓踊り」、風流に着目して「風流太鼓踊り」などに分類されることが多いようです。
「太鼓踊り」は、西日本ではザンザカ踊り、臼太鼓、浮流(ふりゅう)などさまざまな名称・形態のものが分布しており、かんこ踊りもその一端です。
同じ「かんこ踊り」という名称の芸能としては、石川県の「白峰かんこ踊り」、福井県の「上打波かんこ踊り」などが知られています。

行事の性格と分布

◆北部の「雨乞踊り」、南部の「念仏踊り

行事の性格・機能面から見ると、かんこ踊りは農耕儀礼的・神事的側面の強い「雨乞踊り」と、主にお盆に踊られ新盆供養の性格の強い「念仏踊り」の2つのグループに分類するのが一般的です。この2つの性格区分は、全国の「太鼓踊り」一般に見ることができます。

県内の分布を見ると、主に北部の伊賀地方は雨乞踊り、南部の伊勢と志摩地方は念仏踊りと、かなり明確な地域分布が見られます。特に伊賀地方は地理的に近江(滋賀県)と接していることからも、滋賀県に分布の多い雨乞踊りとの親近性が認められ、実際に滋賀県からの伝習を伝える地域もあります。雨乞踊りの分布に伊賀と伊勢の気候風土の相違を指摘する説もあります。

◆ベースは「念仏芸能」

雨乞踊り系のかんこ踊りは日取りも4月・10月などであり、神事芸能としての性格・起源が強調され、地元でも念仏踊とは無関係と思われていることが多いようです。しかしながら「伊勢・伊賀の羯鼓踊」では、これらの地方のかんこ踊りも古くは6・7月の夏祭りに踊られることが多かったことを指摘しています。

雨乞に踊る民俗は、それ自体古い歴史をもつものですが、実はもともと雨乞踊りは念仏踊りと親近性・互換性が強いものです。念仏踊りが時期・目的によって雨乞踊として踊られることは珍しくなく、また神社で念仏芸能を行うケースも少なくありません。近世以前の民俗社会は神仏習合が基調であって、もちろん神事伝統が強調される三重県下でも同じでした。
こうした理由から、雨乞踊り系と念仏踊り系の両グループのかんこ踊りの起源は別のものではなく、やはりもとは念仏芸能をベースに普及・展開したものではないかと思われます。

「かんこ」と「しゃごま」

他の風流太鼓踊と比較したときのかんこ踊りの特徴は、「かんこ」「しゃぐま」の2点に集約できます。踊り念仏系の芸能の「本家」である、京都の「やすらい花」の影響も注目です。

①「かんこ」

踊り子が胸につるして踊る「締め太鼓」で、漢字では「羯鼓」と記し、かんこ踊りの名称のもととなったと考えられています。

◆「かんこ」の起源

五来重「踊り念仏」では、肩から紐で下げて打った民間の伎樂用楽器の「羯鼓」が、胸に下げて左右から打つかんこ踊りの「羯鼓」となったとし、京都今宮御霊会の「やすらい花」を起源とする説を紹介しています。
後白河法皇の「梁塵秘抄口伝集巻十四」、久寿元年(1154年)の「やすらい花」の記事に

「・・・童子にはんじり(半尻)きせて、むねにかつこ(羯鼓)をつけ、数十人斗拍子に合せて乱舞のまねをし、・・・」

という描写がありますが、現代のかんこ踊りを彷彿させるに足るものです。この記事から、平安時代末・中世初期の京都の民俗芸能に「羯鼓」がすでに取り入れられていることが分かります。

「かんこ」

「太鼓踊り」という観点からは、田楽芸能との親近性も念頭におく必要があると思われます。
田楽はもと大陸伝来の芸能と考えられ、近世以降は急速に衰退しましたが、中世の風流芸能の代表格とされる芸能です。田楽では、「ささら」などの楽器とともに「締太鼓」を使うのが特徴ですが、三重のかんこ踊りの中に「ささら」を伝承するところが多数存在していることからも、田楽の影響について考慮すべきと思われます。

②「しゃごま」

かんこ踊りの見た目の大きな特徴となっているのが、被り物の「しゃごま」です。
三重県下では、この「しゃごま」と呼ばれる被り物が地域によって実に様々な形で風流化し、かんこ踊り一般の大きな特徴となっています。

◆しゃごまの分類

「しゃごま」はその形態によって、次のように分類されます(「松阪市史」史料編民俗)。
「しゃごま」(左)と「かんこ」

鳥毛踊り系 津市を中心に分布。おもに鶏の毛で踊り手の顔をおおうようにして踊る。
馬毛踊り系 伊勢市を中心に分布するもので、現在の伝承地は3ヵ所。白馬の尾の毛で、顔から体を覆うようにして踊る。
花笠踊り系 松阪市猟師町、松ヶ崎町ほか。花笠の形や大きさはさまざま。
太鼓踊り系 被り物はごく簡単であるが、かつぎものを付ける場合があり、太鼓が大切な役割を果たす。

伊勢のかんこ踊りを代表するのは「馬毛踊り系」のしゃごまといわれますが、花笠踊り系、太鼓踊り系が数的には多く分布しています。
「しゃごま」の中でも特に有名なのは、伊勢市佐八(そうち)町のかんこ踊りです。ここでは、白馬の毛を円筒状に高々と立てた馬毛系のしゃごまを被って顔を隠し、白黒だんだら模様の上衣に腰蓑をつけ、胸に下げたかんこを叩いて踊るという、異様にインパクトのある格好をしています。

◆しゃごまの起源

この「しゃごま」の起源と目されるのが、「かんこ(羯鼓)」同様京都の「やすらい花」です。「やすらい花」では、踊手の「大鬼」役の青年四人が被る赤や黒の髪毛状の頭巾が、文字通り「赤熊(しゃぐま)」といわれています。この「しゃぐま」が「極度に風流化したもの」(五来重「踊り念仏」)が、佐八のかんこ踊りの「シャゴマ」であると考えられるのです。

かんこ踊りの歴史と伝来経路

①かんこ踊り「外来説」

かんこ踊りを、南洋などからの外来系の芸能とする説があります。

これは、シャゴマに腰蓑、太鼓という踊り手のエキゾチックな格好から想像されたものと思われますが、南洋とは具体的にどこなのか、芸態や行事性格の共通点は何かなど他の根拠がない以上、見た目のイメージによる類推の域を出ません。

ところがこうした外来説の主張につながるもう一つの理由があります。それが「羯鼓」と「しゃごま」の問題です。国語辞典などでは、チベット族の羯人から出た羯鼓が奈良時代に日本に伝承したことを説明しています。また「しゃごま」の中に中国からの輸入品とされるものがあったりして、これらの根拠を援用した「外来漂着説」が混乱に拍車をかけているようです。

しかしながら、国語辞典の解説は宮廷舞楽用の羯鼓の解説であって、これをそのままかんこ踊りの「かんこ」と捉えるのには飛躍があります。「羯鼓(かんこ)」「しゃぐま」は、先述のように平安時代にすでに「やすらい花」の民俗芸能に取り入れられた経緯があります。この「かんこ」が念仏芸能や田楽など中世の様々な芸能を経て、「かんこ踊り」に取り入れられたと考えれば問題ありません。

「しゃごま」等のエキゾチックな姿形も、風流化の一つの形態であり、またわが国に広く見られる精霊を表す異装と考えれば、外来説に頼らずとも十分に理解することが可能です。

②「高田派専修寺(せんじゅじ)の大念仏」起源説

伊勢は、織田信長を苦しめた伊勢長島の一向一揆で有名なように、伊勢神宮のお膝元でありながら、真宗文化が色濃い土地です。この真宗文化から、かんこ踊りの起源を推理してみましょう。

五来重「踊り念仏」では、かんこ踊りの歴史および伝播経路について、「大念仏」という踊り念仏系の中世的芸能に着目して、具体的な説を提示しています。三重県下では、かんこ踊りの別称を大念仏呼んだり、大念仏の名を冠したかんこ踊りが複数存在すること、また志摩地方のようにかんこ踊りの伝承地と近接して大念仏が集中的に残っているケースが見られることなどから、現在伝承されている「かんこ踊り」と「大念仏」の親近性は明らかです。

同書では、三重県津市一身田(いしんでん)にある大寺院「浄土真宗高田派専修寺」の存在に注目します。それは、鎌倉時代に同派がこの大念仏を「布教の生命」(前掲書)としており、歴史的にはっきりした高田派の伊勢伝播プロセスに、大念仏(かんこ踊り)の伝播を重ねあわせて理解できると考えられるためです。

真宗高田派は、もともと下野(栃木県)高田専修寺を拠点とする浄土真宗の一派で、真宗十派といわれる諸派の中でももっとも真宗教団の原型に近いといわれています。同派は善光寺系の融通念仏信仰集団をベースに誕生し、親鸞を迎えて専修寺を迎えたのが嘉禄2年(1226年)ころです。親鸞の死後は、関東を中心に各地に教線を伸ばし、蓮如の登場により本願寺が興隆するまでは、真宗の最大派閥を形成していました。

伊勢方面へは、同派三世顕智上人が三日市(鈴鹿市)に「如来寺・太子寺」を創建。室町時代になると、十世真慧上人が東海北陸布教の拠点として伊勢一身田厚源寺に移り、文明初年(1469ころ)に無量寿院を建設。のち戦国時代に下野高田専修寺が荒廃したため、この無量寿院が高田派本山専修寺となり、現在に至っています。

この三日市如来寺・太子寺を拠点として「大念仏」が伊賀・伊勢・志摩一帯に広がり、一身田厚源寺へも伝承。さらに大念仏を縁として、真慧上人および専修寺が下野から伊勢に移ったというのが、前掲書の推理です。現在も三日市「如来寺・太子寺」には大念仏との関わりの深い有名な念仏芸能「おんない」が残り、また専修寺門前の厚源寺にも江戸時代に「大念仏」が伝承していたことが実証されています。高田派寺院とかんこ踊りがともに三重県域を中心に濃密に分布することを考えても、両者の関係の深さは否定できません。

(ただし、高田派本山専修寺は現在は「大念仏」を伝承していません。それは、十代真慧上人の伊勢入部とともに、高田派の教義はすべて本願寺派の教義に統合されてしまったためです。本願寺の教義はきびしい「専修念仏」主義のため、踊りを伴う大念仏のような催しは「雑行雑修」として禁止されてしまったのです(「真慧上人御定」)。一身田専修寺には近世以来の京都本願寺に由来する文物が多数伝来していますが、同寺が本願寺・京都風に変化する段階で、「やすらい花」の羯鼓が導入されたのではないか、と前掲書はさらに一歩踏み込んで推理しています。いかがでしょうか?)

③地域の伝承

三重県下でかんこ踊りを伝承する地域の言い伝えでは、古いところでは「700年前から」「室町時代から」といったところがありますが、多くの地区では300~350年位前(元禄時代ころ)からと伝えられているようです。「江戸初期」は、文献上は姿を消した風流ブームの余韻が残る時代です。

④文献史料等

かんこなどの「太鼓」に記された記録や古文書類の年代は、およそ200年前(寛政年間前後)に集中しています。

菰野町嘉例踊り 明和6年(1770)
榊原第4区羯鼓踊り 安永8年(1780)
伊賀町山畑神事踊り 寛政11年(1799)
阿児町立神ささら踊り 文化2年(1805)

(「みえの羯鼓踊」より抜粋)

ただし、これはこの時期にかんこ踊りが始められたことを示すわけではなく、かんこ踊りで使用する楽器類の整備時期ないし作り替えの時期を示しているものと考えられます。

(参考文献)

「松阪市史 史料篇民俗」
「踊り念仏」五来重
「みえの羯鼓踊」三重県/三重県農業会議

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