”虹色”の踊りの輪

ハワイの象徴でもある、虹。
虹は、マルチエスニック社会・ハワイにおける民族調和のシンボルとしてしばしば使われます。たとえばRichard Fassler の写真集「RAINBOW KIDS」では、民族間の通婚で生まれたたくさんの愛らしい子供たちが紹介されています。人種・民族の実体視や歴史的経緯への配慮が必要ですが、確かに”虹”というシンボルには、マルチエスニックなハワイの特徴と、エスニック間の調和への願いが反映されているようです。

ところで、日本国内の盆踊りでは、これまでエスニックな側面が問題にされることはほとんどありませんでした。ハワイのボン・ダンスも日系人を母体としていますが、一見してマルチエスニックな踊りの輪を見ても、盆踊りの担い手(母体や参加者)を考える際に、エスニックな分析視点が必要になることは明らかです。

いったいハワイの盆踊りは、どんな”虹色”なのでしょうか?

マルチエスニックな盆踊り

ハワイは虹が多い

多民族社会・ハワイと日系人

ハワイに日系人 Japanese が多いことはよく知られています。でも、日系人の人口比率が一時40%を超えていたと言ったら、驚かれる方も多いのではないでしょうか。ハワイ系や白人系の人々が多いことは予想がつきますが、日系人は現在でもハワイ人口の約25%を占め、主要なエスニック集団の一つとなっています。

日系人がこれほど大きなポジションを占めるに至った理由は、いったいどこにあるのでしょうか?

*1 1940年以降、ポルトガル系と統合。

*2 1960年は「その他」に統合。
*3 黒人系、プエルトリコ系、その他。1960より、朝鮮系含む。
なお、元データは部分的に推計値を含んでいる。

(データ出所)A.W.Lind ”Hawaii’s People “,Univ. of Hawaii Press 1955(1980)
※参考文献1.2.所載のデータをもとに作成。

マルチエスニック化の背景には、まずハワイ系人口の激減がありました。
1778年、トマス・クックのハワイ”発見”の際、ハワイ原住民人口は約30万人(一説では80万人)と推定されています。ところが、西洋人の持ち込んだ伝染病に免疫のなかったハワイ人は激減し、わずか100年で数万人程度にまで減少してしまったのです。

一方、移民人口増大の原因となったのが、ハワイのサトウキビ・プランテーションにおける労働力需要の拡大です。1835年、ウィリアム・フーパーがカウアイ島コロアに最初のサトウキビ・プランテーションを建設。以後ハワイの砂糖産業は世界市場を相手に爆発的に成長し、並行して猛烈な労働力需要が発生します。ハワイ系人口はすぐに不足し、労働力は海外へと求められることになりました。

注目されるのは、サトウキビ・プランテーション経営者たちは労働者の連帯を防ぐため、意図的・計画的に労働者の出身国をコントロールし、多様なエスニックの人々を受け入れたことです。このことがマルチエスニック化の大きな原因となりました。

海外労働力としてまず増加したのは中国系移民でしたが、1885年を境に日本から本格的な移民が始まります。以後1924年の移民禁止(アメリカ排日移民法)まで日系移民は急速に拡大し、二世・三世の増加もあいまって他のエスニック集団を凌ぐ存在となったのです。

図表1は、ハワイのマルチエスニック化のプロセスとともに、ハワイが経験した激烈な近代史を実にリアルに物語っています。ハワイにおける日系人の増大、そしてボン・ダンス普及の大きな背景として、こうした”資本主義的世界経済”の展開の歴史がありました。

ハワイの「日系人」とは誰か?

次に問題になるのは、ハワイにやってきた「日系人」、すなわちハワイのボン・ダンスの担い手となった人々は、いったいどのようjな人々だったのかということです。日系人は、日本列島全体から均等にハワイへやってきたわけではありません。その出身地域にはきわめて大きな「偏り」がありました。

図表2 ハワイ日系人の出身県別人口(1929)

*1 たとえば福島盆ダンス倶楽部役員への聞き書きで確認される。(出所)上田喜三郎「ハワイ日系人社会点描・1970年(4)」太平洋学会誌第91号 2002年
*2 「ハワイ事情(1968年版)」所載の日系人団体に「新潟音頭連中 ワヒアワ新潟盆ダンス」の記載がある。(出所)*1に同じ。
(図表)飯田耕二郎「ハワイ日系人の歴史地理」ナカニシヤ出版、2003所収の「地域(島)別・出身者道府県別人口分布表(著者作成、元データ:「日布時事布哇年鑑」,日布時事社、1929所収「布哇日本人人名住所録」)」の所載データをもとに作成。

図表から明らかなように、戦前のハワイ日系人の出身県は西日本に集中しており、広島・山口をはじめとする上位4県で全日系人の約75%を占めていました。東日本では、新潟・福島の2県がきわだっていたことがわかります。

注目されるのは、ハワイのボン・ダンスで見られる「伝承系踊り曲」と、日本列島におけるルーツ地域との関係です。現在、ハワイのボン・ダンスでは「岩国音頭」「福島踊り」の2つが代表的な伝承踊り曲となっており、また沖縄系のボン・ダンスでは「エイサー」系の一連の曲が伝承されていることが知られています。岩国音頭は山口県(2位)、福島踊りは福島県(7位)、エイサー系踊り曲は沖縄県(4位)と、いずれも日系人出身上位県をルーツとする踊り曲が伝承されていることがわかります。また、現在では伝承が途絶えていますが、広島県(1位)の「小河(おこ)踊り」、新潟県(6位)の「新潟踊り」もかつて存在していたことが確認されています。

lこうした結果を見ると、やはり集団的な身体技法である盆踊り(踊り曲)の移入や伝承のためには、同じ踊り文化を共有している人の絶対数が多い地域(踊り)が有利と考えることができます。一方、広島や熊本など人口の多い県の踊り曲が必ずしも残っていないことを考えると、踊り曲の「伝承」には人口要因以外にもさまざまな力学が働いていることが想定され、要因の究明が期待されます。

プランテーションの中の日系コミュニティ

「国籍の異なる労働者はふつう別の建物か別のキャンプに住まわされた。(中略)民族別キャンプが別々に形成されたことは、労働力の補充と移民が波状に行われたことを反映していた。」

ロナルド・タカキ「パウ・ハナ」刀水書房、1985

「契約労働の初期には、プランテーションへの日本人のふり分けは主に県単位で行われたため、同じ県の出身者が固まって住むことになった。」
森仁志「境界の民族誌」明石書店、2008

特に初期のプランテーションでは、日系移民は日系だけで比較的まとまったコミュニティ生活を送っており、また県単位での集まりも強かったようです(*1)。ハワイにおける最初のボン・ダンスは19世紀末頃プランテーション内で行われたことが指摘されています(*2)が、こうしたプランテーションのコミュニティ環境が、同じ出身地域における共通の盆踊り文化の移入・継承に寄与したものと考えられます。

一方で、プランテーション内外での生活の中で、日系人も必然的に他のエスニシティ集団やその文化との接触を余儀なくされます。こうした経験の積み重ねの中から、日本では考えることのなかった自らのエスニシティやエスニック文化に対する意識が形成されていきました。ボン・ダンスもまた、そうした「自覚された日本文化」として、求められ、定着していった面もあったのではないでしょうか。

「ハワイ・プランテーションビレッジ」には、プランテーションにおけるさまざまなエスニック集団の生活文化が展示され、ハワイと日系人の歴史を知る格好の場所となっています。上から日系、ポルトガル系文化の展示の様子。

ハワイ日系人における「ミックス人口」の増加

現在のハワイのボン・ダンスは、日系コミュニティを基盤としつつも、踊りの輪への参加は基本的にオープンになっており、どのエスニシティの人も分け隔てなく参加することができます。

しかし、ボン・ダンスのエスニシティ構成をさらに一段と複雑にしている要因があります。それがミックス人口、つまり複数のエスニシティに出自を持つ人口の増加です。たとえば冒頭で紹介した “Rainbow Kids “には、ミックスの子どもたちの写真とともにその出自情報が添えられています。たとえば「Hawaiian・Chinese・Japanese」「Japanese・English・Swedish・German・Norwegian」といった具合です。

ハワイの日系人は歴史的に他の民族との結婚(民族通婚)の比率が低く、1950年代では全体平均が30%強のところわずか8.7%と、他のエスニック集団と比べてきわだった低さでした。しかし、50年代以降多くの三世が結婚する頃からこの比率は急速に高まり、90年代には他のエスニック集団と同様ほぼ50%にまで上昇しています。

こうした変化の中で、「フル・ジャパニーズ」(日系人の両親から生まれた子供)に対する「パート・ジャパニーズ」(夫婦いずれかが日系の子供)の比率は1970年代出生の世代(多くは「四世」に該当)を境に逆転し、その差は徐々に広がりつつあります(参考文献2.参照)。

つまり、現在のボン・ダンスの輪の中では、いわゆる「非日系人」だけでなく、日系人の中でも特に若い世代のパート・ジャパニーズの増加という形で、エスニシティ構成の多様化・複雑化が見られることになります。さらに、日系の中でも、Okinawan を意識的に選択・主張する沖縄系の人々のムーブメントなども見られ、ボン・ダンスのエスニシティをめぐる状況はますます複雑になっています。

ボン・ダンスの「虹色の輪」は、幾重にも折り重なった複雑で豊かな色合いを持ち、その色合いはますます深みを増しつつあるようです。

*1  戦前は、おなじ日系人の中でも、「内地」(沖縄から見た日本本土)系の人々による 沖縄系の人々への言語的・文化的差別が行われたといわれていることも指摘しておく必要があります。現在ハワイの沖縄系の人々の間では、自らのエスニシティとして状況に応じてJapanese と Okinawan を使い分けることも少なないようです(参考文献2.参照)。コミュニティの一体性と文化的独自性を大切にする沖縄系の人々はまたエイサーなどの盆踊り文化の伝承にもたいへん熱心です。

*2 参考文献5.参照。

≪参考文献≫

1.飯田耕二郎「ハワイ日系人の歴史地理」ナカニシヤ出版、2003

2.森仁志「境界の民族誌」明石書店、2008

3.上田喜三郎「ハワイ日系人社会点描・1970年(4)」太平洋学会誌第91号 2002年

4.ロナルド・タカキ「パウ・ハナ」刀水書房、1985

5.中原ゆかり「ハワイ日系人のボン・ダンスの変遷」(水野信男編著「民族音楽学の課題と方法」世界思想社、2002年所収)

6.Fassler,R.C. Rainbow Kids:Hawaii’s gift to America. Honolulu:White Tiger Press.1988