盂蘭盆経について

お盆の元になっている盂蘭盆経は、インド由来でなく、中国で撰述されたお経であると考えられています。元来仏教は、輪廻転生とそれからの解脱がテーマであり、先祖という要素はありません。
元々の仏教の要素に、先祖を大切にするという中国の伝統が付加され、形成された経典だと考えられます。

用語

目連尊者(モッガッラーナ、目犍連)

釈迦の十大弟子で神通第一と言われれ、舎利弗とあわせ、二大弟子とも言われる。

餓鬼の世界

仏教でいう輪廻する「六道」:天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道のうちの1つ。

常に餓えと渇きに苦しみ、体はやせ衰えてしまう。

 

 

 

盂蘭盆経抜粋

聞如是。一時仏在舎 衛国祇樹給孤独園 大目乾連 始得六通欲度父母 報乳哺之恩 即以道眼   観視世間 見其亡母 生餓鬼中 不見飲食 皮骨連立 目連悲哀 即以鉢盛飯 往餉其母
母得鉢飯 便以左手障鉢 右手搏飯 食未入口 化成火炭 遂不得食
目連大叫 悲号啼泣 馳還白仏 具陳如此

~中略~
仏告目連 十方衆僧 七月十五日 僧自恣時 当為七世父母 及現在父母  厄難中者 具 飯百味 五果 汲灌盆器 香油 錠燭 床敷 臥具 尽世甘美 以著盆中 供養 十方大徳衆僧
~中略~
目連比丘及 大菩薩衆 皆大歓喜 目連悲啼 泣声釈然除滅 是時 目連母 則於是日 得脱一劫  餓鬼之苦 目連復白仏言 弟子所生 母得蒙三宝 功徳之力 衆僧威神之力故 若未来世 一切仏弟子亦応奉此盂蘭盆 救度現在父母 乃至七世父母 為可爾不 仏言 大善快問 善男子 若有 比丘 比丘尼 国王 太子 大臣 宰相 三公 百官 万民 庶人 行慈孝者
皆応先為 所生現在父母 過去七代父母 於七月十五日 仏歓喜日 僧自恣日 以百味飲食     安盂蘭盆中 施十方自恣僧 願使 現在父母 寿命百年無病 無一切苦悩之患 乃至七世父母
離餓鬼苦 生人天中 福楽無極

現代語訳

こう聞いている。お釈迦様が祇園精舎におられたときに、目連が初めて六神通という神通力を得た際、我が身を養い育ててくれた亡き父母に何かできないかと思った。
その霊視力をもって 世間をみつめた所亡き母が餓鬼の世界にいるのをみつけた。
飲食も取れず骨と皮になっていた。目連は悲しみ、すぐ鉢に御飯を盛って母のもとへ持っていった。母は御飯を得て、左手で鉢を支え右手で御飯を食べようとしたが口に入れる前に焔がたち炭に変ってしまい食べることはできない。目連は大いに泣き叫び、お釈迦様の所に帰って、このことを報告した。
~中略~
お釈迦様は目連にこう言った。十方の衆僧が、「修行中であった安居の最終日」七月十五日、まさに七世の祖先から現在の父母まで、厄難中者のためにつぎの物をお供えしなさい。御飯、多くのおかずと果物、水入れ、香油、燭台、敷物、寝具。世の甘美を尽くして盆中に分け、十方の大徳・衆僧を供養しなさい。
~中略~
その時目連や集まった修行者たちは皆大きな喜びに包まれ目連の泣き声もいつしか消えていた。目連尊者の母は、この日をもって気の遠くなるような長い餓鬼の苦しみから救われ得た。目連はまたお釈迦様に言った。「私を生んでくれた父母は、仏法僧の功徳をこうむることができた。衆僧の威神力のお陰である。将来の全ての仏弟子もこの盂蘭盆を奉じて父母から七世の先祖までを救うことができますか。そのように願って果たされるでしょうか。」
お釈迦様は答えて言う。
いい質問だ。
今私が言おうと思ってたことを聞いてくれた。

善男子よ、もし僧、尼、国王、皇太子、大臣、補佐官、長官、多くの役人、多くの民衆が慈悲、孝行をしようとするなら皆まさに生んでくれた父母から七世の祖先までの為、七月十五日の仏歓喜の日、僧自恣の日において
多くの飲食物を用意して盂蘭盆中に安じ十方の僧に施して、祈願してもらいなさい。
現在の父母の寿命が伸びて病気も無く一切の苦悩やわずらいも無くまた七世までの祖先は餓鬼の苦しみから離れ天人の中に生まれて福楽が大いにある。

盂蘭盆経の趣旨

盂蘭盆経に記載のとおり、7月15日に仏僧に施して、祈願供養していただくことで、七代までの祖先が苦しみから離れられる、という趣旨になります。
ここでは、現在の日本のお盆のように、祖霊が帰ってくる、というような要素はありません。供養をすることで、ご先祖様が解放されるという趣旨になります。

このように、祖先崇拝という中国の風習が加味されたうえで、日本に入ってきた盂蘭盆の考えは、さらに、祖霊信仰の要素が加わったと考えられます。具体的には、亡くなった方が、夏時期に戻ってくる、特に最近亡くなった方は特別である、という信仰です。また、踊るという考えも、日本で形成されたものになります。

日本の盂蘭盆会の歴史


 

盂蘭盆会(うらぼんえ)は中国から入り、行事としては、飛鳥時代から行われている記録があります。

文献名著者和暦西暦内容
盂蘭盆経
日本書紀 斉明天皇代斉明天皇三年657辛丑、作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人或本云、墮羅人
蜻蛉日記藤原道綱母応和二年962十五六日になりぬれば、盆な どするほどになりにけり。見れば、あやしきさまに、担ひいただき、さまざまに急ぎつつ集まるを、もろともに見て、あはれがりも笑ひもす。 さて、ここちもことなることなくて、忌も過ぎぬれば、京に出でぬ。
天禄元年970七月十余日にもなりぬれば、世の人の騒ぐままに、「盆のこと、年ごろは政所にものしつるも離れやしぬらむ」と「あはれ、亡き人も悲しう。 思すらむかし、しばしこころみて、ここに斎もせむかし」と思ひ続くるに、涙のみたり暮らすに、例のごと調じて、文添ひてあり。(道綱母) 「亡き人をこそ思し忘れざりけれと、惜しからで悲しきものになむ」と 書きてものしけり。
枕草子清少納言1000年頃右衛門の尉(ぞう)なりける者の、ゑせなる男親を持たりて、人の見るに、おもてぶせなりと、くるしう思ひけるが、伊予の国よりのぼるとて、浪に落としいれけるを、人の心ばかりあさましかりけることなし、と、あさましがるほどに、七月十五日、盆たてまつるとていそぐを見給ひて、道命阿闍梨、
わたつ海におやおしいれてこの主の 盆するみるぞあはれなりける
とよみ給ひけむこそをかしけれ。
明月記藤原定家治承四年七月十五日1180十五日、天晴、亭主為禮佛被参御堂、依行歩不叶、乍輿被参堂中快持、女房四五人步行、皆着罩衣重、高食卿、肥前、越中、参法勝寺盂蘭盆
吾妻鏡文治二年1186七月大十五日庚寅。盂蘭盆を迎へ、勝長壽院に 於て萬燈會を行は被る。仍て二品并びに御臺所渡御す。是二親以下の尊靈得脱の奉爲也と云々。
太平記1330年頃七月には、朔日の告朔。広瀬竜田の祭に可向。五位の定め。女官の補任帳。二日最勝寺の八講・七夕の乞巧奠。八日の文殊会。十四日盂蘭盆。

1186年 盂蘭盆で万灯がともされたという鎌倉 長勝寿院跡

こうした盂蘭盆と日本の祖霊信仰との合流が、後に念仏踊りと融合し、盆踊りが形成されることになります。お盆の風習が一般庶民にまで浸透したのは、江戸時代ではないかと考えられます。

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