概観


16世紀は、盆踊りを含めて日本中が踊りまくった「踊りの時代」でした。この時期、盆踊りにかかわる主たる舞台は、京の都、そしてそから地方に移ります。京都では、経済力をつけた町衆たちが主人公となって活躍します。彼らは一躍盆踊りの主役となります。

 

この時代

京では、細川家の政権把握と、家内での抗争が続きます。一方で、地方ははまさに戦国時代。下克上の風潮の中、群雄割拠といわれるような時代となります。そして、織田信長が京を制圧し主導権を握った後、本能寺の変を経て豊臣政権となり、戦国は安土桃山と転換していきます。
<京>
1508年~31年 細川高国が畿内実権掌握
1532年~48年 細川晴元が畿内実権掌握
1549年~68年 三好長慶が畿内実権掌握

<地方>
1546年 河越夜戦(北条氏康が関東管領、鎌倉公方を退け、関東の覇者に)
1555年 厳島合戦(毛利元就が中国地方の覇者に)
1560年 桶狭間の戦い
1561年 川中島の戦い

<安土桃山時代>
1568年~83年 織田政権
1585年~1603年 豊臣政権

宗教

戦争の時代=「鎮魂の時代」でもありました。
全国の盆踊りの起源伝承が、戦争との関係を説く → 鎮魂 念仏信仰が発端
念仏踊 やがて念仏芸能が様々な芸能の母胎に

盆踊り:この頃の出来事

「踊りの世紀」

・芸能面では、「風流」の中で踊りが「主」に。
風流踊りの大ブレイク:風流傘、太鼓、指揮者

京都の盆の風流踊り「有識者の日記の記録」

・実隆公記 三条西実隆について
・言継卿記   山科言継について
・大館常興日記
貴族の日記。京での、お盆の風流踊りに関する記載多数

文献名著者期日西暦内容
実隆公記三条西実隆永正二年七月一六日1505人夜所々踊躍、言語道断也、
実隆公記永正二年七月一七日1505人夜所々踊躍、又超過
実隆公記永正二年七月一八日1505抑京中踊躍、鐘鼓聾満足陣外無骨不可然之由今日有沙汰尤可然事也
実際公記永正二年七月二三日1505人夜有拍子物、参伏見殿一見了(後略)
言継卿記山科言継1532皮八時分迄以外風流、各くるい候f。ぺ興々々
閑吟集永正十五年1518室町小歌がまとめられている/その後盆踊り唄になったものも
後法成寺関白記近衛尚通享禄二年七月二十三日条1529筆者近衛尚通「立売衆・西大路衆フリウ(風流)」見学
大館常興日記大舘尚氏天文九年七月十四日1540若公様へおどりを可懸御目候由
鹿苑日録歴代鹿苑院主天文九年七月一六日1540自細川殿風流あり
言継卿記山科言継天文十三年七月十四日1544今日京中風流至幼少之物停止、云々、同燈籠見物停止
言継卿記永禄二年七月二十日1559今夕従大覚寺殿武家御所へ風流御返有の云々
言継卿記永禄八年七月十六日1565堀川近江守をとり之歌之事申来、中略 町衆五六人来稽古、拍子以下定之
言継卿記天正四年1576夜方躍有之、今夜一風流門前、見之
言継卿記天正十六年七月十九日1588躍有之間各来可見物之由有之

・洛中洛外図屏風

この頃の風流踊りの様子が描かれている、大変貴重なもの
解説の参考「「盂蘭盆会の風流踊りに関する一考察 」 (その1)及び (その2) 笠理沙」

描かれている内容、有識者の日記、時代状況や当時の屋敷配置を調べると、様子がよく感じとれる。

洛中洛外図 歴博甲本 国立歴史民俗博物館蔵
洛中洛外図模本 東博模本 東京国立博物館蔵
洛中洛外図 上杉本 米沢市立上杉博物館蔵

歴博甲本  景観年代 1525-36年

左隻第6扇 風流踊は一条町通りの辻で行われている

時代背景

細川系武家屋敷が絵の政治的焦点
造営中の柳原御所-典厩-細川邸が中心線
宝鏡寺、百々橋は現在と同一地点 往時の景観偲ばれる

踊りは輪になり、周囲の者は腰をかがめて、すりざさらを使っている。
頭には傘をかぶっている。

現在の一条町通りの辻あたり

東博模本 景観年代 1539年 以降

現在の一条西洞院の辻あたり

風流踊は一条西洞院辻で行われている
左隻第6扇

洛中洛外図屏風 東博模本 復元模写 「東京大学資料編纂所所蔵模写」

時代背景

花の御所跡に今出川御所再建(義晴 造細川晴元)
[第6期室町殿](1542~1552)
閏3月 北小路室町の旧地に室町殿を再建。足利義晴が相国寺から移る。(現同志社)
旧花の御所の室町側(=西面)正面が建て込んでいて使えず、今出川通(今日の烏丸通りに相当する南北街路)側(=東面)を正面にとったことから命名

歴博甲本と同様に輪になり、周囲の者はすりざさらを使っている。

 

現代の盆踊りにつながる踊りのイメージ

歴博甲本、東博模本ともに真ん中に、赤熊(派手な色の帽子)、きらびやかな服装をした人が楽器(太鼓など)で音頭をとり、外側の人が足を踏んでいる様子が描かれている。周囲の人の動作は、足を踏みしめる形と考えられる。反閇(へんばい)とよばれる、呪術的な足をたたくような動作や、それから派生した動き(例えば相撲の四股)にもつながる形でないかと思われる。なお、今なお残る風流太鼓踊り系盆踊りにも、足を踏みしめる動作がよく出てくる。
洛中洛外図に描かれている踊りに似たものとして、種子島の西之本国寺盆踊りがある。真ん中の人が風流傘をかぶり、周辺の人が踊る(踊りは反閇的な動きが残っている)、すりざさらなどの利用はないが、かなりの類似点みえる。

古い形を残す種子島の西之本国寺盆踊り

上杉本 景観年代 1547-61年

時代背景
長慶の後継者三好義継と三好三人衆暴走、武衛陣襲撃
5.18 長逸知恩寺、義継革堂、久秀相国寺常徳院に止宿(言継)
5.19 武衛陣包囲乱入、将軍殺害
「義輝-三好体制」崩壊、三好三人衆支配へ

風流踊りは、悲田寺西側
右隻第2扇

このころの風流踊り

研究によれば、以下の様相であったと推察される。

平成18年度民俗芸能学会
講師:植木行宣氏 テーマ:[ 風流踊り研究の現状と課題]滋賀・京都の例

イ.踊り手が楽器を奏しつつ踊る踊り、
ロ.組歌形式の小歌を踊歌とするが腰鼓姿で打ち踊る中踊やその系統の踊り子が中心、
ハ.組歌形式の小歌を踊歌とし、 側踊が踊る歌の部分では太鼓・鼓などの踊り手や音頭からなる中踊が囃子方となり、節拍子では中踊が踊り手となるものでその踊りが主体、
ニ.ロの省略形で、腰鼓姿や小太鼓を抱えたり下げたりする小人数の踊り手が笹を採る新発意の采配で打ち踊るもの、
ホ.囃子方と踊り手の構成で、歌謡としての踊り歌の享受を主体とする踊
をあげ、 [* 風流踊り]は、
イの歌をもたぬ[* 拍子物]とロ以下の歌を共有する[* 風流踊り]に分けられ、
さらに腰鼓姿の踊り手による節拍子が主体となる[* 〓鼓踊]り、
同じく節拍子が主体だが踊り手が太鼓など打楽器系の複数の楽器を打ち踊る[* 太鼓踊り]、
踊り歌の享受が主で歌とともに緩やかに踊る[* 小歌踊り] の三つに分類できる。

盆踊りの独立

本当の意味での「盆踊り」の登場。
・主役は「町衆」。古層町衆といわれる。エリート色が強い人たちで、一般庶民全員が参加者というわけではない。
町衆は町ごとに「組」をくんで、互いに踊りを掛け合ったりした。
こうした町衆を中心に、武士も、貴族も、様々な階層の人たちが踊り興じたのがこの時代の特徴でもある。
むしろ「掛け踊り=辻や屋敷を巡る、組同士掛け合う」の側面が強いと考えられる。
・初期の宗教性弱まり、娯楽性高まる。

地域における盆の風流踊りの登場

日根野荘(現在の泉佐野市内)に、九条政基が荘園管理に向かった際の内容を記録した「政基公旅引付」には、荘園における風流踊りが記載されている。九条政基は元々日根野荘の所有者であるが、当時、守護、根来寺と領地の年貢徴収の権利を争っており、その確保のために現地に向かった。村では諍いが絶えず、一時的に村民が逃げる逃散や、死傷者を伴う争いなどもおこっている。そんな中でも荘園の民は「念仏風流」をお盆に催し、政基に「都のものに勝るともおとらず」と感心させている。近畿圏であり、都に近いこともあるが、村の民が、風流踊りをたしなみ、そのレベルが高いものであったことがうかがえる。

今の日根野庄を訪ねて「歴史の中の盆踊り」

文献名著者期日西暦内容
政基公旅引付九条政基文亀一年1501~4十三日 今夜船淵村之衆風流念又来堂之庭、念仏以後尽種々風流、田舍之土民所行可為比興哉之由、成其覚之処、各能作、云風情云言詞不恥都之能者、条々故実以下。恐有職之輩、逸興相催了、百疋仰付遣酒直云々、誠不可。□賓~

 

戦国大名による、風流踊りの記録あり。織田信長や今川氏真など、歴史上著名な人物も踊りを楽しんだ様子が記録されている。
京都の文化が、地方に波及したことが伺える

文献名著者期日西暦内容
信長公記大田牛一弘治二年七月十八日1556七 月 十八 日お どりを 御 張行赤鬼平手内膳衆,黒鬼浅井備中守衆, 餓鬼滝川左近衆 中略、上総介殿は天人の御仕立に御成り侯て、小鼓を遊ぱし、女おどりをたされ侯。津島にては堀田道空庭にて、一おどり遊ぱし、それより清洲へ御帰りなり。津島 五ヶ村の年寄どもおどりの返しを 仕り侯
中略 炎天の辛労を忘れ、有り難く、皆感涙をながし 罷帰り侯ひき。
校訂 松平記不詳永禄十年1567七月、駿河国に風流の跳、はやり、諸人惣踊りをおどる。~中略~
三浦右衛門佐・・・氏真にも勧 ~中略~
永禄十一年六月より踊りまたおこり・・氏真ほおかふりなされ、大鼓を打ち給
三好記不詳天正六年七月十六日1578風流之事:十河存保公踊りを有るべきために仮屋形を結構に作らせ座席を尋常にかかえ
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