概観

大正の日本文化復興
大正時代は、日本の伝統文化再発見の時期。新民謡の作曲、民謡や民俗芸能の価値発見がなされます。他分野の日本の伝統が見直される流れと絡みながら、あらたな動きが生まれます。日本の工芸品を見直す民芸運動(民芸品の誕生)、日本情緒を踏まえ子供向けに作曲された童謡、子供向けの文学である童話、日本的な音楽を西洋音階で作曲する新民謡、和楽器での新規作曲をする新日本音楽、日本式の踊りをあらたに振り付けする新舞踊、歌舞伎の新作など、があげられます。また、各地盆踊りの価値も見直されはじめ、そして、民謡や民俗芸能の発掘、保存活動につながっていきます。

また、レコードの発明と発展、ラジオの開始などメディア影響が、東京音頭の大流行につながります。これまで、東京になかった盆踊りが都会にあらわれ、また、他の盆踊りがなかった地域にも波及していきます。

この時代

会社員(サラリーマン)が形成され、現在の生活様式に連なる都市型のスタイルがこの時代に作られてきます。そしてレコードの普及、ラジオ放送の開始など、メディアにも大きな変化がみられます。政治的には、第二次護憲運動から普通選挙など、デモクラシーに通じる動きがおこります。関東大震災以降は、恐慌や世界の政情不安定の時代に移り、そして農村の貧困等、不安の時代に移ります。文化的には、開明的で洒脱な大正ロマン、昭和モダンから、エログロナンセンスに移行します。
1910~20年代 大正デモクラシー
1923年 関東大震災
1925年3月 初のラジオ放送
1929年 世界恐慌
1931年 満州事変、昭和恐慌
1936年 2.26事件

盆踊り この頃の出来事

新民謡の誕生

日本文化復興の流れの中で、新しく作曲される民謡調の音楽「新民謡」が登場します。そうした中で、土地毎の特徴を詩に込めるものが登場。
作詞家の野口雨情、作曲家の中山晋平が作曲した須坂小唄が新作地方民謡の最初となります。

野口雨情と中山晋平

大正八年野口雨情中山晋平は、民謡の旅にでかけ、水戸、大洗などをめぐる。磯節などを鑑賞した。このころ、「船頭小唄(枯れ薄)」が作成される。そして新民謡の最初といわれる「須坂小唄」完成は、1923年(大正12年)。この新民謡は、歌うだけでなく振付けもされ、振りをつけたのが藤間静枝(藤蔭 静樹)である。藤間は、芸妓出身で、新舞踊の担い手である。当時最先端のメンバーだったといえる。

竹久夢二が表紙を描いた須坂小唄の楽譜

新民謡について

以下のような特徴がある。

詩 各地の特徴や名物をおりこんだもの
音楽 レとソを抜いた、五音で作る、ヨナ抜き短音階
ヨ=四 ナ=七 ラシドミファラ 4と7が抜けている
振付 日本舞踊がベース

昭和20年までに、ビクター102曲、コロンビア114曲の新民謡が発売されている。
参考:【論文】「東京音頭の創出と影響 ―音頭のメディア効果―」 刑部芳則

東京音頭

新民謡の代表格である、東京音頭は、西条八十作詞、中山晋平作曲。元歌は、昭和7年に作成された「丸の内音頭」であり、永井荷風 『墨東綺譚』には、日比谷公園で、浴衣を切符代わりに開催されたことが記されている。昭和8年歌詞を一部変えて東京音頭と改作され、小唄勝太郎、三島一声の唄で爆発的なヒットとなる。振付けは、新舞踊の花柳寿美である。この音頭は爆発的なヒットとなり、全国を巻き込んだ旋風を巻きおこす。
東京音頭のヒットにはいくつかの要素がある。
・東京が発展し、地方から人が流入。盆踊りを懐かしむ土壌が東京にできた。(都市習俗と地域習俗には大きな差異があったことがポイント。東京に盆踊りはなかったが、地域ではまだ、根強い力をもっていた)
・今でいうメディアミックス戦略が功を奏したこと。丸の内音頭は、白木屋の浴衣とのコラボレーション。東京音頭は、芝公園から順に大会を実施してプロモーションをかけ、蓄音機を利用して地方も含め大会と講習を設定。さらに、野村芳亭監督の映画「東京音頭」も製作される。
参考:大石始「ニッポン大音頭時代」

中山晋平愛用のピアノ。東京音頭作曲にも使ったという。(熱海市の中山晋平記念館)

新民謡の代表的なメンバー

作詞家
野口雨情
西条八十
北原白秋など

作曲家
中山晋平など

歌手
小唄勝太郎など

振付け
藤蔭静樹
花柳寿美
など

レコードの発展

大正時代から蓄音機/レコードが普及しはじめ、これまで、生の唄でなければ対応できなかった盆踊りが、録音技術により発展していく契機となる。初期のレコードは、演説集、唱歌、オペラ、浪花節、小唄、義太夫などと並んで、俚謡が目録に入っている。

ニッポノホンの蓄音機レコード目録「俚謡」の項目あり

 

 

 

 

 

 

ラジオ放送の開始

大正15年(1925年)東京放送局(現在のNHKラジオ)が放送開始。基地局は東京の愛宕山であった。

町田佳声による、民謡番組は、仮放送の段階からスタート。大きな反響を呼んだという。

開設当時の東京放送曲のあった東京港区の愛宕山。現在はNHK放送博物館がある

初期のラジオ受信機(NHK放送博物館入口コーナー)

民謡採取活動

町田佳声による、民謡の録音、採譜など、民謡を保存、音符化する取り組みがはじまる。

「町田式写音機」:昭和12年(1937年)頃、市販の写音機(蓄音機のラッパの部分に声を入れると、溝のきっていない原盤に音が記録される仕組)。その後製造元が倒産してしまい、独自に町田が当該機械と蓄音機を組み合わせて写音機を作成。町田の記録により、戦前の現地記録の民謡を聴くことができる、大変な取組みであった。

町田は、採譜もしており、「民謡大鑑」の作成にとりかかるが、その後、竹内勉に受け継がれ、完成まで実に50年近い歳月が費やされた。

日系移民が海外に持ち寄った盆踊り

ハワイへの移民は1885年にスタートした。当時は、ハワイ王国で、アメリカの州になったのは1898年。
1908年以降は移民は制限されるようになった。こうした日系移民のメンバーは、現地に日本文化を持ち込んだ。例えばワイパフに河童がでるなど、民俗的なものも一緒に連れて行った形である。

そうした中、出身地の盆踊りも踊られ、これは21世紀の現在でも継承されている。

現在でも残っているのは、福島音頭(福島県)、岩国音頭(山口県)、エイサー(沖縄県)である。

<Judy van Zile “Bon Dance In Hawaii”より>

・移民の生活は、労働時間10時間、26日という過酷な条件であった。
・1905年のヤマト新聞が最初の記事。岩国音頭に言及あり。その後、盆踊りの記録は途絶え、1915年にまた、出現。アベ・シュンイチ氏が14歳のころの記憶。「マウイ島のコクア(ハワイ語でhelp)プランテーションで、盆のとき、パイアやワイルクにトラックにのって行き、踊った。トラックの上でも狂ったように踊った」
・初期の盆踊りは、人々が働いていた場所の庭や、プランテーションの長屋の間でおこなわれていたと考えられている。きついプランテーション生活を耐えうるものとし、親族関係を強固にしたと考えられる。
・その後、盆踊りは寺の中庭で行われるようになった。
・欧米流に、土日が休みになるに従い、参加しやすさのため週末開催が定着していく。
・ハワイの盆ダンスは、誰かが日本で覚えていたものから踊られた。30年代になると、新しい音楽「音頭」が日本から入ってきた。
・劇場プロモーターがコンテストをはじめ、そのうち賞金を出すようになった。コンテストの最後に、観客はコンテスト参加者にさそわれ、一緒に踊った。
・商業的で非信仰的なものになっていったが、同時期に日本でも同様だった。
欧化政策に伴い、伝統的な盆踊りがモディファイされ、モダンな踊りがコマーシャリズムにのって拡大された。
・引き続き、盆踊りは寺院により主催されていたが、2世は宗教的なものにとらわれず、盆踊りの宗教色が薄れた。
・2世にとって盆踊りは、アメリカ流のダンスから離れる意味があった。福島音頭に体をゆらし、皆で手を打つことは、夏の夜を快適にすごす助けるものであった。息苦しく混雑したダンスホールで踊ることは、楽しみよりは苦役に近い感じだった・・。
・盆踊りは、日系社会の若者の娯楽の中心となり、友人と思いがけずあったり、ロマンスの元になったり、そこから結婚にいたったりなど、楽しいイベントであった。

日本民俗学の誕生

柳田国男

明治43年(1910年)遠野物語発表
大正2年(1913年)郷土研究創刊

折口信夫

大正5年(1916年)年國學院大學内に郷土研究会を創設

民俗学者による盆踊り価値発見
大正十五年 柳田国男が、新野盆踊りを来訪
「この踊りは盆踊りとして完全な特徴をもっている珍しいものなのでこの形をくずすことなく後世に伝えるように」

盆踊り保存活動のはじまり

郡上踊り保存会の結成

大正12年に郡上踊り保存会が結成された。

初期の民謡記録

「俚謡集」「俚謡拾遺集」高野辰之が主に編集 1914年(大正3)年

郷土舞踊の研究と保存

「郷土舞踊と民謡の会」開始 1925(大正14)年:郷土舞踊の発表会

「民俗芸術の会」

民俗芸術創刊号 昭和3年(1928年)

当時の民俗芸術(芸能)の保存と紹介、研究には、非常に広くのメンバーが感心を寄せて、また、サロン的に集まっていたことがわかる。
柳田国男、折口信夫(民俗学)、金田一京助(言語学)、中山晋平(作曲家)、野口雨情(作詞家)、小寺融吉、永田衡吉(民俗芸能)、町田博三(町田佳声:作曲、民謡研究)という各分野で後世に名を轟かす面々が揃っている。以下、創設の記録(雑誌民俗芸術創刊号より)
初代の世話人は小寺融吉、永田衡吉

「民俗藝術の会の記」
昭和二年七月八日、第一回の茶話会をひらいて会の方針を打合はせた。出席者は柳田國男、今和次郎、山崎樂堂、早川孝太郎、金田一京助、清水泰次、日高只一、町田博三、中山晋平、藤澤衛彦、蔵田周忠、上森健一郎、 高木恭造、小澤愛團、永田衡吉、小寺融吉の諸氏であった。会の名称や研究調査の対象の問題、その適当な方法、 及び資料の公表、その他の問題が議せられた。そして隨 時談話会を催して、研究発表、それに関する討議をし、 または機会ある毎に実地調査の事、ゆくくはパンフレットを出して、会が得た資料を公表すること、但し会が 蒐集し若くは寄托せられた実際の物品は、早稲田大學の 演劇博物館に、会の名に於て寄托しようといふ議が定められ、永田小寺兩氏が世話人となつた。世話人の任期は一年である。
七月十四日から三日間、東京放送局では盆踊の戶外放送を行なった。会員町田博三、仲木貞一兩氏は放送局に関係しておられるため、特に便宜を計られて、多くの会員は連夜放送の実況を参観した。

~中略~
九月九日。第一回の談話会をひらいた。野口雨情、熊谷辰治郎、藏田周忠、佐藤武夫、中山晋平、早川孝太郎、北野博美、羽田義朗、柳田國男、小寺融吉の諸氏出席。盆踊に就ての談話を交換した。主として盆踊の原始的內 容と樣式が論ぜられた。

~中略~

十一月十二日。第三回談話会。折口、柳田、山崎、金田一、北野、早川、仲木、上森、西角井、永田、小寺の 諸氏出席。折口氏が「翁の成立」と題して四時間に亘る發表をされ、後は例に依て、これに関する討議に移つた。 そして過日来から計画せられていた会の機関雜誌「民俗藝術」を、いよいよ新年から創刊することになり、その旨が発表された。同時に三越呉服店と提携して、昭和三年一月、同所で 第一回民俗藝術寫眞展覽会を催すことも決定を見た。

大正期 絵はがきになった盆踊り

大正期、盆踊りが絵はがきに使われており、盆踊りの見直し機運にあわせ、名物として認知されていたことがわかる。以下は、絵はがきの形式や消印から、大正10年頃までのものと考えられる。地域も様々。また、産業系もある。

東洋紡績名古屋の盆踊り (新潟工女による)

新潟芸妓の盆踊り

徳島の盆踊り 当時はまだ、阿波踊りという呼称でなかったことがわかる

弘前の盆踊り

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