概観

鎌倉後期、新仏教の中から、盆踊りの1つのルーツでないか、と考えられる、一遍上人の踊り念仏がおこります。

この時代

1185年頃~1333年頃
1185年 鎌倉政権成立
1225年 執権政治
※踊り念仏の一遍 1239年~1289年
1274年、1281年 元寇
1285年 得宗専制
1333年 鎌倉幕府滅亡

武士の力が拡大し、「鎌倉幕府」が成立。政治・経済・文化を独占していた貴族に代わり、武士が権力を握る「封建時代」が始まりました。そして庶民が台頭しはじめるのがこの時代です。

基礎情報

人口:600万人で停滞、都市以外は散居型村が多い
属性タイプ:貴族、僧侶、武士、百姓、無縁者 百姓が8割以上
寿命: 30才程度
飢饉、災害の状況:3~5年に1度の飢饉、疫病、災害
伝承媒体:貴族、武士、村落支配層だけ文字利用 口承中心
領有体制、税:荘園管理と地頭の二重支配、物納中心
庶民の衣服:麻で出来た簡易なもの
庶民の食べ物:ヒエ、アワ、野菜中心
庶民住居:間取りのない、堀立式住居
庶民の娯楽機会:限定的

宗教

この時代の宗教は仏教、特に「念仏信仰」を軸に大きな動きを見せました。近年では、鎌倉時代の仏教界の中心勢力はいぜんとして奈良・京都の旧仏教であったことが定説となっています。しかし、少数派・異端とはいえ、庶民のための宗教(「鎌倉仏教」)が登場し、確実に広まり始めたのもまたこの時代です。そして、庶民派仏教の代表格が「念仏信仰」です。

盆踊り:この頃の出来事

日本芸能史の「一大転換期」といえるこの時期。後の盆踊りにつながる重要な動きが見られました。

踊り念仏 〜踊る宗教〜(鎌倉後期)

盆踊りの直接の母胎となり、後の多くの民俗芸能の起源となったのが「踊り念仏」です。
踊り念仏は、「念仏信仰」という宗教面と、「集団での踊り」という芸能、パフォーマンス面とを結びつけたもので、鎌倉時代の宗教家一遍上人が広めたことは広く知られています。
「踊り」という点で注目。
・空也系の踊り念仏を一遍が取り入れたとも考えられている。
京都干菜や、信州善光寺など、すでにある程度全国に存在した可能性。
・念仏は、早くから鎮魂儀礼・呪術(空也)
・念仏・和讃を唱えながら踊るものだった
・「ナムアミダブツ」六字名号に節をつけた「詠唱念仏」をうたいながらおどるものだった。

一遍の踊り念仏

国宝「一遍聖絵」に描かれた、信州小田切の里(現長野県佐久市小田切)のシーン(踊り念仏の誕生)、片瀬の浜(現神奈川県藤沢市片瀬)の踊り念仏のシーン(初の念仏踊りの興行)、市屋(現京都市下京区)での踊り念仏(空也をしのんで、遺跡の地で実施)が有名。踊り念仏は、最初自発的に踊られるところからスタートし、興行的、布教的な要素がそこに入ってくるのが、絵をみるとよく理解できる。この踊り念仏が、やがて、盂蘭盆の行事、風流、庶民信仰などと結びついて、盆踊りのルーツの1つとなったと言われる。

小田切の里(現長野県佐久市) 踊り念仏誕生のシーン

「一遍聖絵」清浄光寺(遊行寺)蔵 (利用許可取得済・不許複製)

文献名著者備考期日西暦内容
一遍聖絵昌戒第四巻第五段弘安二年1279信濃国佐久郡伴野の市庭の在家にして,歳末の別時のとき,紫雲はじめてたち侍りけり.抑抑(そもそも),をどり念仏は,空也上人,或は市屋,或は四条の辻にて始行し給けり.......それよりこのかた,まなぶものおのずからありといえども,利益猶あまねからず.しかるを,いま時いたり,機熟しけるや. 同国小田切の里,或武士の屋形にて,聖,をどりはじめ給ひけるに,道俗おほくあつまりて結縁あまねかりければ,次第に相続して一期の行儀と成れり。~中略~「おどりて念仏申さるる事けしからず」と申せば、聖、「はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをばしるひとぞしる
現代語訳信濃国佐久郡伴野の市場の在家で,歳末別時念仏会をしたとき,紫の雲がはじめてたちました。そもそも踊り念仏は空也上人が京の市屋や四条の辻にて始めたとされます.......それから後はこの踊り念仏を自然にまねするものがありましたが、今、時節が到来したのでありましょうか。同国小田切の里のある武士屋敷で聖が踊り始めますと、僧も俗人も多く集まってみな一緒に踊りはじめましたので、次第に相続して一代の行儀となったのです。。~中略~「踊りながら念仏するとはけしからん」と言いますので、一遍聖は、「はねたければ、はねるがよい。踊りたければ踊ればよい。春野辺に放たれた馬のように。まことの仏法の道は心ある人にはわかるのです。
片瀬の浜(現神奈川県藤沢市片瀬) 踊り念仏の盛況

鎌倉に入ろうとして幕府に拒否された一遍上人たちが、片瀬の地蔵堂(舞台)で踊り念仏。これが大いに盛り上がり、3月~7月の数ヶ月にわたり、聖絵には、踊り念仏に熱狂するひとびとの表情が生き生きと描かれています。片瀬地蔵堂跡地は、藤沢市片瀬(江ノ島電鉄湘南海岸公園駅近く)に今もひっそり残っています。

「一遍聖絵」清浄光寺(遊行寺)蔵 (利用許可取得済・不許複製)

文献名著者備考期日西暦内容
一遍聖絵昌戒第六巻第一段弘安五年1282弘安五年三月二日、かたせの館の御堂といふところにて、断食をして・・・・七日の日中にかたせの浜の地蔵堂にうつりゐて、数日ををくり給けるに、貴賤あめのごとく参詣し、道俗雲のごとく群衆す。同道場にて三月のすゑに紫雲たちて花ふりはじめけり・・・
現代語訳弘安五年三月二日、片瀬(現藤沢市片瀬)の館の御堂といふところで、断食をして・・・・七日の日中に片瀬の浜(現片瀬海岸)の地蔵堂に移って、数日を過ごされたとき、身分にかかわらず非常に沢山の人が集まりました。その場所で三月の末に紫の雲がたって花が降り始めました。

藤沢市片瀬の地蔵堂跡

市屋での踊り念仏(現京都市下京区) 空也の遺跡での踊り念仏

「一遍聖絵」清浄光寺(遊行寺)蔵 (利用許可取得済・不許複製)

文献名著者備考期日西暦内容
一遍聖絵昌戒第七巻第三段弘安七年1284そののち雲居寺六波羅蜜寺次第に巡礼し給て空也上人の遺跡市屋に道場をしめて数日ををくり給いしに・・・
現代語訳その後、雲居寺、六波羅蜜寺等を次々巡礼されて、空也上人の遺跡である市屋(現京都市下京区六条通河原町西入本塩竃町)を道場にして数日をお送りになりましたが・・
一遍上人について

三十代で「肉親の愛を捨て仏道一筋に生きる」と再出家、遊行の旅に出る。信州の小田切の里にて、ある武士の館で一遍上人が踊り、僧も俗人も皆一緒に踊ります。そして、「踊りながら念仏するとはけしからん」という者に対し『跳ねたければ跳ねればよい。踊りたければ踊ればよい、春の野に遊ぶ馬のように。まことの仏法の道はわかる人にはわかるのです』と語りました。その後、鎌倉に入ることを禁じられた一遍は、片瀬(藤沢市)で櫓をたて、踊り念仏を行う。これは数ヶ月に及びます。その後も山陰、機内、などを巡り、1289年に亡くなるまで遊行を続ける。一遍の後、時宗は踊り念仏を勧め、また、戦に同行する僧となった。また、入門の敷居が低いことから芸能関係者を取り込むことにもなり、芸能との結びつきも出ることになった。

一遍上詳細詳細

念仏信仰の広がり

・こうした念仏信仰を広めたのは、「聖」といわれる下級宗教家たちだった。
・代表格「時衆」の活躍とともに、全国に普及。
時衆は、まさに念仏信仰の代表的集団。きらわれていた「死穢(しえ)」を扱う特殊  技能者集団でもあった。=鎮魂 戦場に
・大念仏
大念仏とは、集団で行う念仏。全国に念仏信仰や踊り念仏を拡大・普及していった。
・同じ念仏信仰を持つ人たちは、集まって「念仏講」という信者集団を組織し、念仏信仰を実践するとともに様々な芸能の受け皿となっていきました。